2012年4月16日月曜日

キューバ有機農業ブログ


2012.4.14

マヤの崩壊・下


人口が1%へ激減した大崩壊

 古典期はマヤの黄金時代だった。旧世界でもごくわずかの民族しか到達できない知的・芸術的な高みに達していた(1)。古典期の半ばには中部を中心にティカル、カラクムル、コパン、ナランホ、パレンケ、あるいは、ヤシュチランといった50~70もの王国が林立し(4,6)、中でも抜きんでていたのが、ティカル、パレンケ、コパンだった(4)。とりわけ、紀元前一世紀に台頭したティカルは、西暦500年頃には2500㎢の領土と36万人を支配する都市だった。マヤの規模からすれば、これは驚くべきほどの大帝国だった(3)ティカル遺跡(写真上)は最も研究が進んでいるが、人口密度が最も高い中央部の16㎢では、古典期後期のピークの人口は約1万人で、湿地に囲まれた東西と砦で囲まれた南北の周囲� ��には、さらに3万9000人が居住し、全人口は4万9000人となっていた。この数値は、古代シュメール人の都市の約5万人にほぼ匹敵する(6)。ティカルには、15万トン程の70m高さの神殿ピラミッドがあり、様々な構造物が3000もあった(1)。そして、ティカルの人口の61~74%は焼畑農業以外の手段で支えられていた(6)

 だが、マヤの支配者の石碑は810年には12しか作られず、830年にはこれが三つとなり(6)、それ以降は建てられなくなる。ティカルでは800年に記念碑が作られなくなり、830年には新たな建物も建てられず、碑文も消える(1)。コパン、キリグア、ピエドラス・ネグラス、ボナンパク、パレンケも800年頃に崩壊する(6)。セイバルでは、830年以降も記念碑が創られたが889年には没落した(1)。この崩壊に伴い、人口も大きく減少した。西暦800年には800~1000万人が暮らし、自然許容力からすれば、信じがたいほどの人口密度になっていた。アリゾナ大学のパトリック・カルバートは200人/㎢まで増加していたとし(3)、産業化前の世界では最も人口密度が高い地域のひとつとなっていたと述べている。そ� �が、ティカルでは崩壊によって、中心部の人口が90%以上も減少し、1000~2000人が残っただけとなってしまう。ティカルを支えてきた地域もこれに応じて人口が減少した。R・E・W・アダムズは、75年で300万人が45万人へと減少したとする一方、パトリック・カルバートは、100年で100万人が失われたとしているが(6)、いずれにせよ、古典期の最盛期には300~1400万人あったとされる中央ペテン地域が、スペイン人到来時にはわずか3万人しかいなかった。人口の99%以上が失われたのだ(2)。これを崩壊といわずしてなんといおう。ジャングル内に放棄された神殿や宮殿。マヤは崩壊した文明の中でも最も有名なひとつとなっているのはそのためだ(6)。いったい何が、これだけの大崩壊を引き起こしたのだろうか。

 以下のように様々な研究者が様々な説を立てている。

侵略崩壊説

 ハーバード大学のジェレミー・サブロフとゴードン・ウィリー教授は、メキシコ湾岸から優れた武器を持つ侵略者に襲れたとの説を提唱した(1)。セイバル遺跡とアルタル・デ・サクリフィシオス遺跡には、9世紀や10世紀の陶器、建設、彫刻に急速な変化が見られる(1,6)。事実、セイバルの建築の繁栄期は、芸術様式が変化した時期と一致し、これが軍事的な占領という推論に結びついている。以前は、こうした侵略が崩壊の引き金となったと考えらたこともあった。だが、パトリック・カルバートは、こうした侵略は、崩壊の原因ではなく結果であって、ただ権力が抜けた空間を利用するために周囲の人々が移動しただけだと述べている。アルタル・デ・サクリフィシオスの住民の骨格の分析からは遺伝学的に別の民 族が侵入した証拠がない(6)

病害虫説と土壌劣化説

 ブリューベーカーは、東部カリブ海からマヤ低地にハリケーンでもたらされたトウモロコシ・モザイク病ウィルスが凶作を引き起こしたと提唱している(6)。ペンシルヴェニア大学のロバート・シェアラー教授も、トウモロコシのモザイク病ウィルスが全滅させたと述べている(1)

 C・W・クックは、1931年に、マヤの崩壊が土壌侵食と土地不足によって引き起こされたと提案した。1962年に低地地帯の幅広いエコロジー的な研究を行なったサンダースもほぼ同じ結論を下し、焼畑農業による土壌劣化が、サバンナの形成につながったと主張している。その後、サンダースは、各都市間の政治的な対立も資源集約化につながった要因だとしている(6)。マイケル・コーも乾燥した斜面の段丘くらいしかまともな農地がなくなったと環境限界説を提唱している(1)

 これと関連するのが、マヤ人たちの健康状態の悪化だ。1965年にゴードン・ウィリーらは、バルトン・ラミエの遺骨が年代を経るごとに脆弱となっていることから、食料供給の危機が古典期後期には極度になったと述べた。

 ティカル・プロジェクトの研究によれば、墓を持つステータスが高い死者と墓を持たない庶民とで西暦1世紀頃には、身長差が広がり、幼少期から栄養的に恵まれていたエリートの身長が平均7cm高くなっている。ところが、古典期後期には、エリートも庶民もストレスの影響を受け、男性の身長は、いずれも著しく低下している。また、アルタル・デ・サクリフィシオス遺跡からも、先古典期から栄養失調や高い寄生虫罹病が発生していることを示し、貧血も高く、子どもの成長が中断し、男性の身長が先古典期と古典期にかけ小さくなり、平均寿命も古典期後期に突然に低下し、ビタミンC欠乏症や壊血病がかなりの頻度で発生していたことがわかっている。コパン遺跡でウィリアム・サンダースによる最近の研究も、農村地帯で伝染 病や栄養疾患が蔓延し、都市はさらに深刻で、農村住民よりもかなり若年で死んでいた。都市住民の平均死亡年齢は古典期後期にさらに低くなり、下層階級の人々は不健康で、年上の子どもやティーンエイジャーも多くの異常な死因を経験していたという(6)。だが、本当にマヤの健康が悪化していたのかどうかはまだ疑問が残る。1996年のテキサス大学人類学部のローリー・ライト博士と西オンタリオ大学人類学部のクリスティン・ホワイト博士が、調べたところ、とりたてて健康状態の悪化は見られないとしている(1)

旱魃説

 ジャレド・ダイヤモンドが提唱するのは、環境破壊と旱魃説だ。湖底の花粉の研究によって、マヤ地域が過去三度大きな旱魃に襲われたことは前回述べた。だが、ベネズエラ沖のカリアコ海盆から採取された深海コアから、湖底以上に旱魃の状態が明らかになってきた。ジェラルド・ハウグらは、760年、810年、860年、910年に四度の旱魃があったことを明らかにした(3)。760年頃に2年間の旱魃があり、810~820年にはさらに乾燥し、860年頃には3年、910年頃には6年の乾期があったのだ(2)。これを元に、考古学者リチャードソン・ベネディクト・ギルは、810年に始まった旱魃がパレンケやヤシュチランを崩壊させ、860年の旱魃がカラコルとコパンを崩壊させ、890~910年の旱魃がティカル、ワシャクトゥン等を崩壊させたと述� �た。まず崩壊したのは、地下水が手に入りにくい中南部で、セノーテがある北部はこれ以降も生きのびたというのだ(2,3)

 旱魃説は説得力がある。マヤでは、西暦534~593年にかけ、記念碑数や遺跡数が激減する時期があり、ハイアタスと命名されているが(6)、このティカル等の都市が衰退した時期とも重なり、600年頃にやはり旱魃があるのだ。そして、旱魃は208年の周期で再発しているが、紀元前2170年には世界初のメソポタミアのアッカド帝国が崩壊し、600年にはペルー沿岸のモチカ第4期文明が崩壊し、1100年頃にはアンデスでティワナク文明が崩壊しており、他の先史文明の崩壊とも重なる(2)

 マヤの都市の多くは、窪地の底部を漆喰で塗り固め、ため池と貯水槽を作って乾期に備えていた。ティカルには1000人が18カ月分使うだけの貯水量があった(2)。ティカルの遺跡は今は石がむき出しだが、当時は漆喰で覆われていた。一滴の水も逃さぬように、建造物の内部には漆喰で固められた水路が張り巡らされていた。すなわち、ティカルがマヤ文明の中心であり続けたのは、雨季の雨水をコントロールし農地に水を提供する高度な水管理技術を作り上げていたことが大きかったのだ。だが、神殿の建設や水路の建設に必要な大量の漆喰を作るには大量の薪も必要で、これも熱帯雨林を破壊する一因となった。雨が減少したことが、最後に息を止めることにつながったと月尾嘉男は、2007年1月2日に放映されたパナソニック・ スペシャル地球新世紀、「水と土の循環」で指摘している(5)

食料不足が戦争社会を産んだ

 ジャレド・ダイヤモンドは、環境の劣化に加え、こうも指摘している。

「古典期の崩壊が近づくにつれ、戦争の激しさと頻度は増していった(略)。しだいに減少する資源をめぐって大勢の人たちの戦闘行為が増加した。王と貴族たちの関心は短期的な問題に注がれていた。私腹を肥やし、戦争を行い、石碑を建て、マヤの王たちは現実の深刻な脅威を前にしながら、なんら能動的な打開策を講じなかった」(2)

 だが、ダイヤモンドの説からは、なぜ、マヤの王たちが戦争に従事し、脅威を前に対応策を講じなかったのかがいっこうに見えてこない。マヤ人の王たちは、現代人よりも愚かだったのだろうか。だが、ジョセフ・ティンターの解説を読めば、なぜマヤ人たちが戦争を止められなかったのかがよく見えてくる。ティンターは、マヤの人口増加が戦争の引き金になったと指摘する。

 ベカン遺跡(写真右)を取り囲み堀や防壁が大きく強化されたのは、西暦150~300年にかけてであり、マヤ文明を特徴づける戦争は、先古典期、あるいは、原古典期から始まっている。そして、先古典期後期には、マヤ人たちは、人口増加と資源ベースの緊迫という課題に直面することとなっていた。人口が増加し、食料の生産能力に余裕がなくなれば、生産性の変動の影響が大きくなる。マヤの生産性の変動は、アサナジ族のような乾燥地域ほどは深刻なものではなかったが、マヤの人口密度は現在のジャワや中国の一部に近いほどの高さに達していたために深刻なものがあった。先古典期や古典期に集約農法が発展したため、気候、病害虫、養分損失に敏感で、とりわけ、中央ペテンでは食料危機が繰り返し経験されていた。

 生産性の変動を緩和するひとつの方法は、「地域的な経済共生システム」を発展させることだ。相互貿易関係を育成したり、ヒエラルキー的に中央管理される資源プールに余剰を出すかわりに不足時に必要な食料が得られる相互義務を構築すれば、各集団は食料が不足した時期への安心のための保険を得られる。このような戦略をイズベル(Isbell 1978)は「エネルギー平均化システム」と呼んだ。実際、エネルギー平均化システムは、採集狩猟やサブシステンス農業においても数多くの地域の観察されている。

 だが、地域経済共生が成功するには、シンクロせずに変動し、かつ、近くの地域に多様な生産システムがあることが必要だ。こうした条件が満たされず、隣接するグループがシンクロする周期で生産サイクルを経験するようになれば、経済協力のメリットはない。数多くの集団が同時に不足を経験すれば、襲撃と戦争以外の選択肢はなくなる。そして、まさにマヤは近隣する人々がほとんど同じ生産サイクルを経験する状況を作り出してしまっていた。

 この解決策のひとつが農業集約化だったが、これは永久的な解決策ではなかった。生産力が高いシステムが確立されれば、さらに人口が増えたからだ。先古典期にかなり人口が高密度となったとき、生産性の変動は、深刻な懸念すべき課題となった。このための当座の解決策は、不足する食料を埋め合わせるための隣接する集団への襲撃だった。もし、襲撃が食料確保の理由であれば、まず、実りに近づいた作物、農民たちの村、収穫後の格納倉庫が襲撃されたはずである。このリスクから、農村の人々は安全な地域のコアとなる周囲にコアを形成することを選んだ。

 これが、人々が狭い地域に集結し、さらに生存ストレスを強めることにつながった。初期のシュメールの都市国家間で同じことが起こった。分散化した移動型のミルパ農場は防御することが不可能だ。一方、盛土圃場やテラスのような集約農業は、容易に防御でき、価値ある防御を行うだけ生産力もあった。同じことが貯蔵施設にも当てはまる。戦争は農業集約化に一役勝っていた(6)

都市と格差社会の誕生

 こうして、先古典期中期のはじめには社会的な階層分化が明白となり、それ以降はますます高まった。埋葬による地位の区別は、紀元前4世紀頃に生じている。アルタル・デ・サクリフィシオス遺跡では、ヒエラルキーが出現したことが明らかだ。先古典期中期の末に約4m高の建築物が作られ、その後は、13mのピラミッドや階段を備えた古典的な神殿と宮殿の複合体へと転換していく。マヤ社会は高度に階層化され、その社会秩序は、少数の支配階級、職人や官僚の中間階層と小作農民から構成されていた。支配階級は、紀元前1世紀から、あるいは、先古典期中期からは、血縁集団内で世襲されていた。先古典期後期には、階層社会が存在した。

 紀元前100年~西暦150年には、巨大神殿都市としてティカルが出現することになる。競争的な状況の下で、人口増加政策を持つ都市はさらに有利となり、都市に人口が集中した結果として戦争が起こり、都市は攻撃に対する大きな安全性ももたらしていた。その結果、数多くの人員を動員できる都市ほど有利となり、古典期後期には、小規模な都市が統合され、地域的なヒエラルキー支配を確立することにつながった。ティカルの支配圏は古典期初期には、100km四方にまで及んでいた(6)

 だが、マヤでは、どの小国も全地域を統一したまでの帝国を打ち立てることはできなかった。ひとつは、農業生産性の低さだ。古代エジプト農業は農民一人で5倍の食料を生産できたが、マヤは2倍にすぎなかった。そこで、マヤ社会は70%が農民だった。もうひとつは、食料供給と輸送に限界があったことだ。マヤには輸送のための家畜がいなかったし、帆船もなかった。トウモロコシは気候的に1年しか保存できず、多くのマヤの王国は最高でも5万人しか保有できなかった。領地も王の宮殿から2、3日の歩ける範囲に限られていた(2)。中央ペテンでは、マヤ山地のテラスやベリーズの盛土圃場等の遠方から食料を輸入することで緩和されたかもしれない。だが、食料輸送は経費がかかった。パトリック・カルバートの試算によ� ��ば、人力だけで100km食料を輸送すると、輸送者の消費に33%が費やされてしまったという(6)

 マヤを含めたメソアメリカ社会には金属器もなかった。マヤの壮大な神殿はすべて石器と木器と人力だけで建てられたのだ(2)。ティカルでは建築が最も行われた時期は692~751年だった。同時に、古典期後期の建築は、「宮殿」と呼ぶ建物に多くが投資されることとなった。パトリック・カルバートは管理者と貴族の重要性が増えたと示唆する。だが、一見浪費に見える大規模な建設がなされた理由も、見えてくる。

 食料生産力が高かったローマは強力な常備軍を養うゆとりがあった。これに対し、古典期のマヤ国家には常備軍はいなかった。常時食料を巡って小国家が対立し、かつ、現実の兵力がない中で、最良の戦略は戦争回避である。常備軍を備えずに、侵略者側を思いとどまらせ、かつ、紛争を外交で解決するには、自国の強さをPRすることが最も有利である。そこで、プロパガンダが次善策となり、大建築と絵画彫刻の芸術がなされることとなったのだ。建築のようにさして重要ではないことに、多くの富や労力を浪費できることは、敵対国に対し、有事の際には膨大な人数を動員できる強力なメッセージとなるからだ(6)

 チアパス州南部、グァテマラ国境に近い森の奥にあるボナンパク遺跡(写真右)では、1946年に三つの部屋の内部いっぱいに描かれた、生々しい戦争や捕虜への虐待の彩色壁画が発見された(2)。ローマ帝国では、皇帝の勝利の行進の中に捕虜は登場しても、捕虜はそれほど虐待されていない。これに比べ、マヤは、常に囚人を拷問して処刑する虐待シーンが描かれている。これも、潜在的な敵対国からの使者たちに、いかに戦争で負ければ囚人たちが荒々しく扱われるかをPRするためのものなのだ。

 一方、このプロパガンダは、敵対国以外にも効果があった。それまで、バラバラに居住していた農村の住民や小規模な国家が、安全保証というメリットを最も担保できる大規模な都市を魅了したからだ。人口増加は、ストレスの要因だったが、それは、ポジティブなフィードバックのループとなっていた。地域的な外交協定がない中で、この無限の競争から抜け出せた政権はひとつもなかった。巨大な水利施設、農業土木、複雑な社会政治組織、数多くの公共工事、軍拡競争は、いずれも、高い人口密度と関連して生じ、時代とともにその条件は悪化していった(6)

崩壊以降

 だが、それがマヤ文明の終焉ではなかった(6)。二世代前の考古学者たちは、マヤの都市が一夜で放棄されたものと誤って考えていたが、崩壊は急速なプロセスではなく、そのほとんどは、一世紀半かけて没落していった。北部低地地帯も南部の崩壊の影響を受けず、チチェン・イッツァは、ティカルが廃墟となったかなり後も繁栄し(7)、987年にメキシコのトルテカ族に占領されるまでは残っていた(1)。また、スペインに征服されるまで、小規模なマヤの都市は、ユカタンの様々な僻地で生き残っていた(7)

 また、各都市間にある農村地帯にも多くの人々が居住していた。とりわけ、ベリーズのバルトン・ラミーは、830年前後にベンケ・ヴィエホの都市が崩壊したにもかかわらず、65の農村は700~950年で62しか減っていない。また、中央ペテン湖地域でも崩壊後もかなりの人々が住んでいる(6)

 ジャレド・ダイヤモンドは、コパン渓谷の環境破壊が深刻だったと詳細に述べているが(2)、コパン渓谷では、貴族階級が姿を消してから1200年頃まで、300年も住民がいたし、アルタル・デ・サクリフィシオスでもかなりの人々が残っていた。ピーター・ジェイムズとニック・ソープは「本当に環境が破壊されたのならば、都市が崩壊した後、農民たちはどうやって生き続けたのだろうか。環境破壊がマヤの崩壊をもたらしたとする説に反対する強力な根拠となる」と述べている(1)

 もちろん、複雑な文化は失われた。約830~900年にかけ、ティカルにも、住民は残って暮らしてたが、中にはガラクタが散乱し、壊れていない建物内で暮らしていたがいつ屋根が落ちるかわからない危険が伴っていた。そして、古典期の墓や貯蔵所は略奪された。また、貧しい中でも、儀式の伝統を守ろうとし、ティカルの石碑の40%は後の居住者によってリセットされたが、出鱈目にはめ込んだり、さかさまに組んでしまうこともあった。こうした黄昏時代が100年ほど続いたあげく、ティカルは永遠に放棄されたのだった(1,6)。同じパターンが、ウアシャクトゥン、サン・ホセ、パレンケ、ピエドラス・ネグラスといった遺跡でも見出せる。崩壊以降の居住地は広範ではあったが、新たな構築は比較的少なく、バルトン・ラミ� �の農村住民たちも似た行動を示している(6)

複雑な社会のメリットの喪失と自発的な撤退

 こうしてマヤの崩壊を環境や旱魃ではなく、政治的な要因に求めるという説が登場する。政治的な原因に求める説は、エリック・トンプソンが1972年に「人口が激減したのは都市部であって、農民たちは支配階級の圧力から解放され、少ない人口でも満足して暮らした」と主張している(1)

 ジョセフ・テインターもこう述べる。

「複雑さに対する投資は、1200年以上も続いてきた。したがって、戦略として確実にメリットがあった。だが、投資に対する限界収益も年代を経るごとに低下していった。戦争、大規模建築、農業集約化に対して投資を増やしても、これに応じて民衆たちの健康や栄養状態が良くなることはなく、それどころか、システムを支える人々への要求が増え、メリットは低下していた。8世紀後半のある時期には、マヤ文明は弱体化していた。最終的な後押しが、侵入者であれ、環境悪化であれ、支える農民たちが撤退したことであれ、内部矛盾であれ、あるいは、これらの組み合わせであれ、崩壊した事実はさして驚くべきことではない。それは、そうでもしなければ解決できないジレンマへの予測可能調節であった」

 そして、テインターはこう続ける。

「長期的には農業人口は大きく減少した。そして、人口が回復しなかった事実は、低地地帯の環境が集約化で劣化していたことを示しているように思える。集約農業システムは、もはや実施不可能となったヒエラルキー的マネジメントによってのみ維持されていたのであろう。とはいえ、短期的な崩壊で、農民たちはヒエラルキーを支える負担を除かれ、おそらく、その生活水準が改善されることにつながった」(6)

 そう王国の貴族やエリートたちにとっては文明崩壊は災難であっても、農民たちにとってはハッピーだったのだ。戦争回避のための無駄な神殿づくりに従事しなくてもすむ。上から目線で文明崩壊の恐怖感だけをあおり、地球温暖化を回避するためには、よりクリーンな原発の推進が必要だと主張して見せるジャレド・ダイヤモンドの主張だけを聞いていては、テインターのような視点はまったく見えてこない。

 それはともかく、ジャレド・ダイヤモンドは、環境破滅説を主張しながら、こうも書いている。

「マヤ農業を支えていたのは、トウモロコシとマメである。古代マヤ族の人骨を分析するとトウモロコシが70%を占めていた (略)。肉類はシカだったが、支配層の贅沢品だった。マヤ社会では王は司祭の長も兼ねていた。降雨と繁栄をもたらす責務を負っていた。農民が王やその官僚の贅沢なライフスタイルを支え、トウモロコシとシカ肉を捧げ、宮殿建設に従事したのは、王との盟約があったからであった。旱魃が起これば王は農民たちから糾弾された」(2)

 では、マヤの支配者には、旱魃という危機を避ける手立てはなかったのだろうか。ダイヤモンドの上の文章の中にそのヒントがある。マヤの主要作物は、最も初期から栽培されてきたトウモロコシだったが、ラモン・ナッツや様々な根菜類も栽培されていた。花粉からは、トウモロコシの他、カボチャ、アボカド、カカオ、綿、Xanthosoma根が栽培されていたことがわかり、古典的のマヤの芸術からは、実がなる樹木、Achras、Byrsonima、Psidiumが栽培されていたことがわかる。そして、ラモンは、現在もマヤ人たちの飢饉用の食料となっているのだ(6)

 そこで、ジョン・マイケル・グリアはこう指摘している。


ルイーズJamesonはイーストエンダーで何の役割を果たすた

「ヨーロッパが暗黒時代で苦闘する一方、マヤが中央アメリカのユカタン半島で繁栄していた。新石器時代の技術だけを用い、マヤ人たちは、優れた芸術、建築、天文学、数学、そして、私たちが現在用いているよりも正確なカレンダーを備えた傑出した文明を構築していた(略)。マヤは現代の工業化社会と同じく、再生不能な資源ベースのうえにその文明を構築していた(略)。とはいえ、現代の工業化社会の「ピーク・オイル」のように「ピーク・トウモロコシ」に近づくにつれ、マヤ人たちには多くの選択肢が利用可能だった。彼らは、キャッサバ、サツマイモ、ラモン・ナッツのように、トウモロコシよりも収量が高く、地力にさほど負荷をかけない作物のことを知っていた」(7)

 ラモン・ナッツとは、クワ科に属す常緑高木で、栄養価が高い種子をつる。ミルパ農法は、1年のうち半年の労働が必要だったが、ラモンの木の実は、住居の周りに植えられ、女性や子どもでも簡単に収穫できたため、先古典期に比べて同量の食糧を確保するのに要する労働力を格段に減らすことができた。また、マヤ人が使用した地下貯蔵庫での実験では、とうもろこしが3ヶ月でだめになるのに対し、ラモンの実は1年6ヶ月貯蔵できた。ラモンの木は、一度植えれば100年近く育ち、雨量の少ない年でも実がなり、1haあたり約1t近い収量があるのだ。

 マイケル・グリアはこう続ける。

「彼らは、こうした作物にかなりの農地を切り替えることができた。それ以外の古代民族は、この種のシフトを簡単に管理することができた。古代ギリシアの多くの都市国家は、紀元前8世紀にまさにそれを行った。岩がちの半島のエコロジー的な限界に対処する方法として、ギリシャ人は、輸出用のオリーブとブドウ栽培にチェンジし、穀物と牛に基づく経済を放棄した。だが、マヤ人の間では、この種の転換は考慮されなかった(略)。 トウモロコシからそれ以外の作物へと転換することに失敗した背後にある理由は、私たち自身の時代とも関係している。というのは、トウモロコシ農業は、マヤの政治的イデオロギーの中心だったからだ。マヤの都市、国家を統治する「神の力」は、トウモロコシに依存し、トウモロコシは、中央の� ��治権力の重要な資源であったことから、それ以外の作物のためにそれを放棄することは考えられなかったのだ」(7)

 ああっ。なんてバカな連中であろう。昨夜も4号炉の冷却ができず、あわや北半球崩壊かと思われながらも、一切これに動じず、ろくに警戒報道もせず、見事に事故を修理し、次にはさらに原発を稼働しようとしている我が偉大なる日本国中央政権の偉大さとは比べ物にならないほどの愚かさではないか。

 また、マヤの碑銘は、王朝の継承、政治闘争、同盟、王族の結婚等を示し、マヤのエリートたちは暦体系以上に戦争に関心を持っていたことがわかるが(6)、暦体系もマヤの崩壊に重要な役割を演じた。マヤの貴族たちは暦の体系が持つ予言の力を信じていた。そして、2012年ではなく、790年周期で政治的な大変動が起こる定めになっていると考えていた。状況が悪化しても、それは予言の定めであるとし、現実的な手を何も手を打たなかったのだ。こうした貴族たちの姿を目にし、嫌気がさした農民たちは、その政権を支えるのを止めたとピーター・ジェイムズとニック・ソープは述べている(1)

 選択する手段はあったにもかかわらず、トウモロコシにこだわり続けたのは、それが正統性と直結していたからだった。そして、没落史観にとらわれ、具体的な環境対策の手を打たなかった。マヤの統治者も貴族も科学的でなかったといえるだろう。そして、マイケル・グリアは、石油にこだわり続け、成長史観にとらわれ、具体的な環境対策の手を打たない現在人も古代マヤの失敗に学ぶ必要があると指摘する。

 だが、都市を捨てて農村に撤退できたマヤ人はいい。強大な常備軍を持ち、自作農が最終的に農奴と化してしまっていたローマでは、農民に対して一切メリットがなくなった複雑な社会を支える膨大な税金から逃れるためには、蛮族がローマ帝国を打ち倒し、そのくびきから解き放ってくれることを待たなければならなかったのだ。

【引用文献】
(1)ピーター・ジェイムズ、ニック・ソープ『古代文明の謎はどこまで解けたか』(2002)太田出版P115~139
(2)ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊』(2005)草志社
(3)ブライアン・フェイガン『古代文明と気候大変動』(2008)河出文庫P351~364
(4)柴﨑みゆき『古代マヤアステカ不可思議大全』(2010)草思社
(5)月尾嘉男:パナソニック・スペシャル地球新世紀、「水と土の循環」
(6) Tainter, Joseph (1988), The Collapse of Complex Societies, New York & Cambridge, UK.
(7) John Michael Greer(2008), The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Pub
写真はいずれもウィキペディアから

2012.4.14

マヤの崩壊・上


ミステリーマヤ

 16世紀にスペインのコンキスタドールが熱帯林の奥で目にしたという謎の都市遺跡を求め(1)、米国のジョン・スティーブンズとイギリスの画家フレデリック・キャザーウッドが密林の中に埋もれていた(2)古代都市コパンを発見したのは1839年のことだった(1)

 以来、マヤ文明は、謎の文明として人々を魅了し続けてきた。その理由のひとつは水だ(6)。マヤ文明あったユカタン半島は、季節熱帯林と呼ばれる環境に位置し、意外に水を得ることが難しい(2)。5~11月は雨季で農業ができるが(6)、1~4月は乾期になりやすく、季節的な砂漠地帯とも言える。また、ユカタン半島は北から南に向かうにつれて、降雨量が500~2500ミリと増え、土壌も豊かになっていくため、北部よりも南部の方が農業生産性も高い。だが、南部の方が水資源問題はより深刻だった(2)。例えば、北部は雨量が約9%しか変動せず(6)、海抜も低いため、「セノーテ」と呼ばれる天然の穴や洞窟から地下水を手に入れられる。20mも井戸を掘れば地下水も得られる(2)。だが� ��中部の降雨量は年間に1000~2000ミリとかなり幅があり、比較的小規模とはいえ旱魃も発生する(6)。おまけに、ユカタン半島のほとんどは海が隆起してできた多孔質の石灰岩で、地表には利用できる水がほとんどない(2,3)。半乾燥地帯で発展した初期文明はほとんどない。にもかかわらず、マヤではなぜか網目のようにそれが発展したのだ(6)

 第二は、焼き畑農業では不可能に思える都市を誕生させたことだ。マヤ人たちは、現在のように低地全体に散在し、焼畑農業(ミルパ)を行い、地力が低下するに応じて移住する民族と思われていた。焼畑農業で養える人口はせいぜい30~60人/㎢だ(6)。だが、マヤの言葉で「精霊の声が聞こえる場所」を意味する最大の神殿都市、ティカルは、紀元前600年頃から1500年にも及ぶ長きにわたって栄華を極めたが(5)、ティカルの人口密度は約350~400人/㎢に及んでいた。それ以外の初期文明は、たいがい灌漑農業を伴う労働集約型農業をベースに築かれ、分散型の焼き畑農民たちが文明を産み出すことは通常はありえないのだ。最も初期から複雑な発展が目にされた中央ペテン低地の一部は、周辺地域よりもいくらか土壌が� ��質だが、土壌浸食の影響を受けやすい(6)。そして、この地域をのぞけばほとんどの土地は肥沃ではない(3)。大河川も近くになく、大規模な灌漑ができない土地で、焼畑農業だけでなぜマヤはこれだけの人口を養えたのだろうか(5)

 そして、三番目は、突然に消え失せてしまった民族であることだ。神殿都市群は、開放的で防衛もなされず(6)、天体の動きを観測することに心を奪われていた平和で穏やかな民族だと考えてきた(2,3,6)。だが、それが突然に姿を消す。これが、高度に発展した暦もあいまって、マヤをミステリアスな謎の文明としての魅力を高めてきた。

 だが、マヤ文明とその崩壊が不可思議に思われてきたのは、ごく最近までマヤ文明の実態がよくわかっていなかったからだった(6)。1980年代にマヤ文字が解読されたことで、それまでもたれていたマヤへのイメージはかわり、軍事征服にとりつかれ、熾烈な戦争が絶えず繰り返されていた都市国家の寄せ集めだったことがわかってきた(3)。そして、マヤ人たちは崩壊ともに消え失せたわけでもなければ、過去にも崩壊を起こしてきたことがわかってきた(6)。マヤ文明の崩壊もジャレド・ダイヤモンドは『崩壊』で1章を割き、ジョセフ・テインターも第5章で、アサナジ族とローマと並んで分析している。マヤの崩壊をみていこう。

マヤ文明の誕生と森林破壊

 まず、マヤの考古学上の時代区分をみていただきたい。

先古典期中期(Middle Preclassic)紀元前1000~400年
先古典期後期(Late Preclassic)紀元前400~50年
原古典期(Protoclassic)紀元前50年~西暦250年
古典期初期(Early Classic)西暦250~500年
中絶期(Hiatus)西暦550~600年
古典期後期(Late Classic)西暦600~800年
古典期終末期(Terminal Classic)西暦800~1000年
後古典期(Postclassic)西暦1000~(6)

 大きくみれば、マヤの歴史は、先古典期、古典期、後古典期と三区分できることがわかるだろう。古典期という名は、マヤ文明が最も発展した時代であり、ギリシア文明が最も輝かしい時代の名前にあやかってつけられている(4)

 マヤ文明の歴史は古い。早くも紀元前1000年には村と陶器が出現し(2)、中央ペテンではトウモロコシの花粉も発見されている(6)。農民として定着し、森林を切り開いて村落を作ったのだ(1)。先古典期中期には、少なくとも200~300人からなる村があり(6)、まだ、支配者も神殿もない平等な社会だったらしい(1)

 だが、紀元前800~500年の時期になると支配的エリートが出現した兆候か、精巧な墓が作られ始める。高地メキシコのサラマ渓谷のロス・マンガレスでは首長が埋葬品とともに葬られ、その少し後には、エル・ポルトンに神殿が建てられた。紀元前600年には、グアテマラ低地やユカタン半島に広大な神殿が突如として出現する。グアテマラ北部のナクベ遺跡は村落から急速に都市へと変貌し、約18mもの建物が作られた。紀元前400~250年にかけては全域で神殿が発展していく(1)。そして、文字も紀元前400年には現れている(2)。現存する初期の神殿で最も印象深いのは(1)、前150~前500年に発展したグァテマラのエル・ミラドール(写真右)だ(3)。東西の幅が約2.4km、東のダンダ・ピラミッドは高� ��70m、西のティグレ・ピラミッドは約55m高もあり、単独の構造物としては南北アメリカ最大の建築物だったが、その後、放棄され、二度と再建されていない(1)

 都市の出現を支えたのは、農業だった。現在の南部低地地帯の植生は熱帯雨林となっているが、マヤ人たちが農業用に初めて土地を切り開いた当時もそうだった。中央ペテン地域は、「バホス(bajos)」と称される季節的な湿地がちらばり、水源があり、水生タンパク質が確保できることもあって、初期の集落は湖の周囲に定住していた。だが、先古典期中期から後期にかけて、人口は増え続けた。そして、先古典期中期になると、水が不足する内陸部に居住地が増える。ベカン地域では紀元前約500年に早くも人口が環境に負荷をかけ始めた。先古典期後期には、ペテン中央部でも、焼き畑農業の長期休閑が不可能となる。花粉のサンプルからは、先古典期の景観が、トウモロコシ畑と低木地のモザイクに小規模な村々が時に伴うものであ ったことを示している。人口密度は約25~60人/㎢に及んだかもしれない。この集約農業に向けた、第一のシフトによって、先古典期後期以前に、中央地域の多くでは森林が破壊された(6)

人口増加と盛土農業の誕生

 地域差はあったが、人口が増加し続けたことによって、先古典期のある時点では、マヤ人たちは、既存の農業戦略、ミルパ農業を変えることを強いられた。それは、労働集約的な農業を作り出すことによってなされた。R・E・W・アダムスは、先古典期後期から古典期初期にかけ、ペテン中央部や北部において、焼き畑農業から集約農業への転換があったとしている。

 実際、大規模な貯水池や運河からなる水利工学システムが先古典期後期にセロス遺跡(写真右)では構築され、なかには紀元前200~50年にまでまでさかのぼる。同様のシステムは、エズナ遺跡でも先古典期後期に始められている。農業の集約化は、運河や貯水池、そして、テラスを作ることによってなされた。第一は、湖、川辺、バホスと呼ばれる湿地帯に運河を開設・排水し、盛土圃場システムを開発したことだ。

 盛土圃場によって湿地帯で農業が可能となっただけでなく、運河では魚が繁殖し、根圏の湿度が維持され、有機的に富む底土を肥料として使え、かつ、作物輸送用に運河を利用することもできた。盛土圃場は航空写真によって識別できるが、低地地帯の多くの地域にこれらの遺物があったことがわかってきた。例えば、R・E・W・アダムスが、南部低地地帯の約半分をレーダーでマップ化したところ、低地地帯では1250~2500㎢が運河によって改変されたという。運河はアステカのチナンパスが有名だが、その規模一二〇㎢を上回る。盛土圃場は、早くも紀元前約1100年の先古典期後期には出現し、人口が最大となった古典期後期には盛土圃場栽培も最も盛んとなった。盛土圃場栽培は後期古典期にも最も価値ある土地で、ティカルでは、ど� ��主要センターにも簡単に利用できる大量の湿地帯があった。

 二番目は貯水池を築いたことだ。前述したように、低地地帯は、乾期に表流水が不足する。このため、マヤ人は、運河、ダム、貯水池、小規模な井戸、そして、「セノーテ」を改良することで対応してきた。リオ・ベクエリアでは貯水池が一般的で、エズナ遺跡(写真右)でも、農業や生活用水のために雨水を貯水する運河と貯水池かなるシステムが構築された。この作業は、先古典期後期から始まり、このために動かされた土地のボリュームは、テオティワカンの太陽と月のピラミッドに匹敵する大工事だった。

 セロス遺跡では、先古典期後期に大規模な運河システムが構築され、リオ・カンデラリアに沿い、水上輸送に用いられた何百もの狭く幅3~10m、1~2kmの運河システムがあった。総延長180 kmに及ぶ運河を構築するために動かされた土地のボリュームは試算によれば、50万人日の労働力で、掘削された千万㎥の土量は太陽のピラミッドのボリュームの10倍に及んでいる(6)

 すなわち、マヤ人たちは、湿地を農地に変え、運河を掘った。また、ピラミッドや神殿を建てるために使われた石切り場を貯水池にすることで、考古学者ヴァーノン・スカーバラが「小規模流域」と呼ぶ貯水池を中心とした小規模な都市国家を発展させていく(3)

 さらに、土壌侵食を防ぐため、丘陵の傾斜地ではテラス化もなされた。テラスは、南部のカンペチェとキンタナ・ロー丘陵では10000㎢、ベリーズ山地でも1400㎢に及び、その構築年代は、一貫して古典期初期から始まっている(6)

乾燥化による初期崩壊

 このように見てくれば、マヤ文明は、人口が増加したことによって、「ミルパ農法」から「チナンパス農法」(いずれも、拙著:文明は農業で動くで詳述)へのシフトを強いられたことがわかるだろう。チナンパス農法は、水がある限りは威力を発揮する農法だった。事実、エル・ミラドールは、雨季になると一部が冠水する低地を16㎢にわたり都市へと変えることによって築かれた(3)。そして、それが、初期にエル・ミラドールがなぜ崩壊したのかを明らかにする。マヤ地方は紀元前5500年から紀元前500年までは比較的湿潤な気候条件下にあった(2)

 だが、1993年に気候学者のデイヴィッド・ホーデルらは、ユカタン半島の塩湖、チチャンカナブ湖の堆積物のコアから、過去2000年でユカタン半島が三回ほど大旱魃に見舞われたことを明らかにした。一回目が、マヤ文明が形成期であった前475~前250年で、二回目が紀元前125~紀元210年にかけてで、エル・ミラドールが放棄された150年頃と重なっている。このことから、ホールデンは、支配者が旱魃で威信を失ったためだと考える。グアテマラ南部低地のペテン・イッツァ湖も紀元前130~180年に旱魃を受け、それは大規模に居住地が放棄された時期と重なっているのだ(3)。ジャレド・ダイヤモンドもこの二回目の旱魃時期に、エル・ミラドール等の先古典期の崩壊が起こっていると指摘している(2)

【引用文献】
(1)ピーター・ジェイムズ、ニック・ソープ『古代文明の謎はどこまで解けたか』(2002)太田出版P115~139
(2)ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊』(2005)草志社
(3)ブライアン・フェイガン『古代文明と気候大変動』(2008)河出文庫P351~364
(4)柴﨑みゆき『古代マヤアステカ不可思議大全』(2010)草思社
(5)月尾嘉男:パナソニック・スペシャル地球新世紀、「水と土の循環」
(6) Tainter, Joseph (1988), The Collapse of Complex Societies, New York & Cambridge, UK.
写真はいずれもウィキペディアから

2012.4.10

なぜ、没落論が必要なのか


没落学が必要だ

 いま、大真面目で「没落」を研究している日本の大学の研究室、あるいは、研究所があるのでしょうか。そんな就職にも結びつきそうもない、辛気臭く、陰鬱な講座等、学生には人気もありそうもありませんし、そもそも成り立ちそうもありません。ということで、個人的な趣味から「没落」のノウハウを探ることを、今年度の私のテーマとして、このブログ上で始めたいと思っています。

 「没落」というと大変にネガティブな表現に聞こえますが、私なりには、「崩壊」(カタストロフィー)>「ブレーク・ダウン」>「没落」というランクづけの整理をしています。崩壊とは、それ以前の文明の要素がすべて失われてしまい、再生の種がまったく失われてしまうこと。ブレーク・ダウンは、大打撃を被りますが、まだ、以前の文明の智恵や要素がサルベージされ、それを種に文明の復活が期待できる程度のショックです。そして、没落は、さほど大きなダメージを受けることなく、ゆるゆると複雑な文明の要素が解体していって、ゆるやかなソフト・ランディングができるというものです。「下山の思想」の例でいえば、崩壊は崖からの転落死。ブレーク・ダウンは、急坂での転落での重傷。没落は、過去の栄華を振り返� �ながら、坂を下っていく、まさに「下山」と言えます。

 こんなことを考えるようになったのも、カレイド・スコープの4月6日の記事、「原子力独裁者たちが断末魔の叫びを上げる日がやってくる」を読んだからなのです。

 実は、昨年の4月2日には、原発事故の直後もあったのでしょう。私の脳もいささかメルト・ダウンしていて「世界のために北朝鮮と化した日本を経済封鎖しよう」という妄想を書いています。一部、抜粋してみます。

「なんという馬鹿だ。やはりマッカーサーが12歳の子どもといったのは本当だったな。子どもに核を持たせるなど、危なっかしくて見ておられん。さっさと玩具はとりあげてしまおう。このまま放置しておいては、いつ核がはじけるかわからん。北朝鮮と同じだ」

「では、具体的には」

「日本国内の原発を直ちに停止せよ。これ以上多国に放射能をまき散らすな。食料、石油その他の物資すべてを経済封鎖する。この警告に従わなければ、軍事力を持って進駐し、日本の原発業界と官僚組織を解体する」

「旧大日本帝国の解体と同じというわけですな」

「左様、東京裁判を持って、国際社会の警告を無視し、放射能汚染地域内で屋内退避を強要し、無実の市民を放射能や餓死等で殺戮した政治家、官僚、財閥の要人、御用学者、そして、エセ・ジャーナリストは、ことごとくデス・バイ・ハンギングだ」

 半分冗談、半分は本気で書いたのですが、カレイド・スコープの記事を見ると、どうも、これがリアルになってきているようなのです。

世界が日本に三行半を下し始めた

 同記事は、元スイス大使の村田光平氏の3月22日、参院予算委員会の公聴会での発言を紹介しているのですが、村田元大使は、「今の本当の危機的状況というのは、脱原発を早める状況になりつつあると。世界は、日本の実態を知り尽くしたんです。一週間前は、ドイツが原子力ムラの衝撃的なものを放映しました。多くの友人から衝撃を受けたと聞いております。もう福島は世界の問題になったと。そういうことでございます」と述べています。

 同時に、カレイド・スコープは、米国が動き始めていることを指摘しています。

「まず、アメリカが動き出しそうです。原子力安全委員会は、関東上空を高濃度のセシウムが舞っているのに、これを米軍に教えませんでした。駐日米軍は、放射能汚染された食品を食べてしまいました。アメリカは、今や、この政権に対する信頼は皆無です。アメリカは、日本にいる米軍の兵士の命を守るために、軍事委員会の公聴会を立ち上げようとしています。そして、著名な世界的核学者たちが連携して、原子力推進とは何も関係のない中立の評価委員会の設置を提唱しています。近いうちに、その結果が報告されるでしょう(略)。アメリカは、この政権では福島第一原発の事故収束などできないと考えているのです」

 4号炉が崩壊すれば、北半球そのものが崩壊します。そして、4号機が崩壊しないまでも、すでに既存の事故によってカリフォルニアまで汚染されています。

 4月6日の記事で木下黄色太氏は、「アメリカ地質研究所の放射性物質の汚染状況の調査から判断すると、カリフォルニアと関西で、汚染の状態は変わらないレベルと思う。これは、バークレーなどの調査とも合致する。未曾有の事故で、500km程度しか離れていない西日本が守られたのは奇跡に近いと思う(略)。この大地を守ることと、今の民主党幹部の面子のためにガレキ広域拡散を進めることを、取引にする感覚は、気が狂った話にしか僕には思えませんし、絶対にとめないと日本が終了するだけなのです。こんな馬鹿な話を進めさせてはならないと思います」と書いています。

 日本人は世界の中でも類を見ない放射能に強い特殊な民族であることから、被災地を応援しようと放射能まみれの食品を安心して食べることができます。4月7日の「ex-skf-jp」は、「今までに日本が行った食品放射能検査の件数は、去年ベラルーシが行った件数の1%である」と指摘しています。ああっ、なんと偉大な民族であることでありましょうか。露助等とは比べ物にならない偉大なガバナンスではありませんか。放射能なんて全然問題ないのに、日本の100倍も検査しているなんて、ベラルーシはバカなんじゃないでしょうか。

 旧第五高等学校寮歌の第三番はこう歌っています。

  「断雲乱れ飛ぶ所、 斬魔の剣音さえて、スラブの末路今ぞ見る」

 坂の上の雲がいまだに人気を持つ所以です。


トップ10のニップルスリップ

 ところが、日本人以外の民族は、生物学的に放射能にはリスクがあるというのが、グローバル・スタンダードです。当然のことながら、放射能に汚染されていない、水、海産物、農産物(土壌)は、有機農産物以上のプレミアム商品となってくるはずです。となれば、東風という「神風」の僥倖によって守られた西日本の大地は、これから日本が外交取引をしていくうえで、有利な切り札になっていくはずです。少なくとも私はそう考えます。

 例えば、太平洋の某国が海産物を検査したところ、放射能汚染が検出されたとします。福島第一原発から放出されたセシウムが福島のゴルフ場、「サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部」を汚染したことに対しては、東京電力は、「東京電力福島第一原発から飛散し、落下した放射性物質は東京電力ではなく、土地所有者のものである」という論理を展開することができました。ですが、日本国内においてはなんら問題ないこの「話法」も海外にまで通用するとは限りません。

 「この放射能は本国家のものではなく、日本国が出したものである。だから、責任を取れ」

 と言ってくるのではないでしょうか。その時、日本の「円」というマネーがまだ強ければ、私を含めて、完璧なまでの国家への安心と信頼感をいだいている民族が日本人ですから、いくら増税をしても、国家に対する造反はぜったいに起きません。かつてのローマのように増税によって崩壊することはありませんから、無限に増税をすることによって、いくらでも払うことができます。ですが、「円」という価値そのものが下落していて紙屑になっていた時に、「そんな紙切れはいらない。現物で支給せよ。汚染をされていない魚をよこせ」と言われたときには、国家賠償として、某国に差し出すために、汚染されていない西日本の国土は貴重な資産となるはずなのです。

 その意味で、瓦礫を全国に撒いて焼却することによって、わざわざまだ汚染されていない大地を汚染してしまうよりも、汚染しないまま担保しておくことは、将来的に切れる外交カードとしても貴重な資産になると思うのです。

 その意味で、元スイス大使の村田光平氏のような国際的常識のある人の発言はとても貴重だと思います。外交官といえば、第二次大戦中に、英国大使であった吉田茂は、軍部の戦争続行には未来がないとし、「ヨハンセン・グループ」(吉田茂のヨと反戦を組み合わせた体制側の表現)を組織し、戦後、現在の産業省を作ることになる白州次郎もこれに参加していました。未来を見通していたのです。

没落学の見通し

 ということで、前段が長くなりましたが、没落後の世界のシナリオを考えることが必要なのだと思っています。最も、私には独創性がないため、既存の英文データから「これはいける!」と思ったネタをKJ法で抽出し、再整理するという作業になっていくと思います。

 第一段としては、複雑な社会が崩壊するということで、ジャレド・ダイヤモンドも扱うマヤ文明の崩壊とダイヤモンドが扱っていないローマ崩壊をとりあげます。これは、複雑な社会がなぜ崩壊するのかを理解するための理論的なフレームワークとなります。

 そして、第二段としては、複雑な社会をシンプル化することによって、崩壊を免れた事例として、ジョセフ・テインターのビザンティン帝国をとりあげます。テインターによれば、ローマ崩壊後に訪れた世界は、暗黒の中世だったのです。ネタ本は、ジョセフ・テインターの「supply-side sustainability」等になります。

 次に、ジョセフ・テインターの崩壊論を元に、もはや、世界を国家単位で崩壊から救えるすべはなし。コミュニティ・ベースで「中世」へとシフトせよ、とトランジション・タウンとは違った形で、没落戦略を提唱するジョン・マイケル・グリアの論理をとりあげます。ネタは「The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age」となります。最もこの本は、理論的な色彩が強いため、では、具体的にどうするかとなると、同じく、ジョン・マイケル・グリアの「The Ecotechnic Future: envisioning a post peak world」がネタとなります。この本は、没落の未来がどのような姿になるかを第1章で描き、第2章では、没落への備えとして、食、家、仕事、エネルギー、コミュニティ、文化、科学と項目別に没落への処方箋が書かれています。

 もちろん、作業を進めていくうえで、また、新しいネタが見つかるかもしれません。ですが、今はそんなことを考えております。

2012.4.8

アサナジ族の崩壊

消え失せた人々

 ジョセフ・タインターによれば、文明や国家をはじめとする複雑な社会は人類史上の「異形」であって、それを存在させる理由がなくなれば蜻蛉のように消え失せる。文明や国家を支える原動力は、現在は石油なのだが、かつては農業であったことから、農業生産性が低い過酷な環境は、国家がどのように誕生し、そして、崩壊していくのかをシンプルに描き出す。ジャレド・ダイヤモンドの名著『文明崩壊』も、タインターも取りあげるアサナジ族の社会から、まず崩壊のしくみをみていこう。

 世界遺産でもある米国ニューメキシコ州にあるチャコ文化国立公園には、アナサジ族が残した壮大な遺跡が残っている。国立歴史公園は、チャコ渓谷と呼ばれる涸れた険しい渓谷内にある。渓谷そのものは、コロラド高原上に位置する85,000㎢もあるサン・ファン盆地内に位置し、盆地は西はチャスカ山地、北はサン・ファン山地、東はサン・ペドロ山地に取り囲まれている。

 渓谷のおかれた環境は過酷だ。氷点下39度から摂氏39度と60度を超える温度差があるうえ、霜が降りない日は150日にも満たない(3)。土地は乾燥し、平均年間降雨量はわずか213ミリしかないうえ、雨量は89~457ミリとばらつく(5)。ということは、雨が降る年がある一方で、極端な日照りでほとんど雨が降らない年もあるということだ。おまけに、渓谷の帯水層は非常に深いため、地下水を汲み出すこともできない(3)。唯一得られる水は、砂岩の崖からのわずかな湧き水でしかない(5)

 だが、このような過酷な環境の中で、アナサジ族たちは、約千年前に北米大陸における最大の都市を建設していた(2)。渓谷は西暦600年から500年以上も栄え、広大な地域一帯を統合していた(1)。最大の建設物は、「プエブロ・ボニート」と呼ばれる600以上もの部屋を備えた5階建ての建物で、200年以上にわたって使われ続けた(2)。屋根を支える梁材には5m、300㎏ものトウヒ、モミ、ポンデローサマツの巨大な丸太が約20万本も使われた(1,2,5)。ナサニエル・イングリッシュが、ストロンチウム同位体を用いて、丸太の産地を調べたところ、三分の二はチャスカ山地、三分の一はサン・マテオ産だった。渓谷から数百mも海抜が高く100kmも離れた山から人力だけでこれだけの量の材木を運んだのだ。もちろ� ��、1880年代にシカゴに高層ビルが作られるまで、北米で最大の建築物だった(1)


 プエブロ・ボニート【写真はウィキペディアより)

 樹木の年輪は、900~1300年にかけた当時も平均降雨量が221ミリしかなかったことを示唆している(5)。ジャレド・ダイヤモンドは「アメリカ南西部は降雨量が少ないうえ、予測不能で、土壌も痩せている。このような過酷な環境のなかで、先住民たちが複雑な農業社会を発展させてきたことは驚嘆すべき偉業といっていい」と評価し(1)、ジョセフ・タインターも「こうした過酷な環境において、前例なき規模で社会の複雑さ、政治的な階層化、そして、経済共生を持つ地域システムが発展した」と述べている(5)

 ニューメキシコ州には、チャコ渓谷だけではなく、コロラド南部にあるモクテスマ谷のメサ・ヴェルデや(5)、ミンブレ、ホホカム等の先住民文化が発展したが(1)、チャコ渓谷は、他のすべてを凌ぐ複雑な社会システムを築きあげていた(5)。だが、1150~1200年のある時点において、都市はすべて放棄され、600年後に牧羊民ナバホ族が再び領有するまでこの地帯はほぼ無人状態となってしまうのである。ナバホ族は自分たちが発見した偉大な遺跡を誰が築いたのかわからず、姿を消した住民たちに「古えの人々」を意味するアサナジという名を付けたのだった(1)。アサナジ族は、これだけ過酷な環境において、なぜ都市を築くことができ、かつ、苦労して築きあげた都市をおしげもなく捨て去ってしま� ��たのだろうか。

最初の環境破壊

 初めて米大陸にやってきた人たちは、紀元前11000年にはアメリカ南西部に到達していた。そして、狩猟採集生活の一部として農業も取り入れられていく(1)。米国の考古学者、アルフレッド・ヴィンセント・キダーは、アサナジ族の文化発展を次のように区分している。

バスケット・メーカーⅠ期
 遊牧的な狩猟採集時代で、紀元前5500年にまで遡り、石器を用いていたが、アナサジ文化の性格がはっきりしない古期砂漠文化段階

バスケット・メーカーⅡ期(紀元前1200、若しくは紀元前700年~400年頃)
 大河川の氾濫でできた沖積地に小さな村落が築かれ、定住性が際立ってくる。掘り棒を用いて、カボチャやトウモロコシが栽培されたが、マメ科作物はまだ栽培されていない。野生の草の実やアマランサスの実、食用マツの実、ピノンが採集されていた。

バスケット・メーカーⅢ期(西暦400年頃~西暦700年頃)
 沖積地の谷や高地等、農耕に適した場所に集落が形成され、生業形態は農業へと重点が移った。マメ科植物の栽培が始まり、七面鳥も家畜化された。狩猟用の武器としては槍と投槍器にかわり弓矢が現れた(4)

「バスケット・メーカー文化」とは、アナサジ族独特の籠作り文化のことである。アサナジ族の先祖がチャコ渓谷に移り住み、竪穴式住居で暮らしながら農業を行っていたのは、このバスケット・メーカーⅢ期の紀元490年頃とされている(3)。主食は、トウモロコシ、カボチャ、マメの他、タンパク質を75%含むマツの実も採取され、シカ狩りも行われていた。だが、前述したとおり、農業を行うにはあまりにも水が乏しすぎた。水問題を解決するための試行錯誤は1000年に及んだが、まず、試みられたのが、標高が高い高地において農業を行うことだった。これは、モゴヨン族、メサ・ヴェルデ、そして、チャコ渓谷では、プエブロⅠ期(西暦725/750~900年)で試みられた農法だった。高地は比較的十分な降雨量があるからだ。だが、 海抜が高くなれば、気温が低くなるというリスクがある(1)

 そこで、二番目に試みられたのが、地下水農業だった(1)。アサナジ族は、米国先住民の中ではひときわ高度な農業技術を持つ農民たちだった。日陰の斜面で栽培したり、標高を変え、様々な土壌に作付けることで、通常は130~140日かかる生育期間をどうすれば短縮できるかも学んだ。また、自然に灌漑される氾濫原や涸れ谷(アロヨ)の河口に作物を植え、表面流失水を一滴残らず利用することも試みた。不作のリスクを避けるため、畑は分散化し、日照りや洪水のリスクを抑えることで、降雨量の変化や旱魃を切り抜けてきたのだった(2)

 アサナジ族たちの全居住地の中で、チャコ渓谷が発展したのは、環境の面からして有利だったからだった(1)。峡谷には高台流域からの水が集まる。それ以外の場所がカラカラに干上がっていても、峡谷には不十分ではあっても水が流れていることがある(5)。不規則な降雨に依存せずに農業ができ、水があれば地力の回復率も高い。そのうえ、チャコ渓谷一帯は、原生植物や原生動物も豊富で、海抜が低いため作物の生育期が長い。現在とは異なり、アサナジ族が移住してきた当時は渓谷には、ピニヨンマツやビャクシンの森林があり、そこから建設材や薪を得ることもできた。こうしてチャコ峡谷の南側には何百と小規模な居住地が作られていったのだった(1)

 だが、アナサジ族が灌漑用に水を利用し、森林を農地に変えたことで、900年頃には地域には深いアロヨが形成されてしまう。灌漑農業も地下水を利用する農業もアロヨが再び埋まるまでは利用できなくなった。ピニヨンマツやビャクシンの森林も1000年頃には破壊しつくされ、建設資材やピニヨンの実も得られなくなってしまう。灌漑農業が出来なくなり、作物の生産がも落ち込み、木材も自給できなくなれば、人口も減り、渓谷は放棄されるはずである。だが、渓谷では人口が増え、それに応じて、1029年から、グレートハウスの建設も盛んとなっていくのである(1)

格差社会の誕生

 サン・ファン盆地では、バスケットメーカーⅢ期とプエブロⅠ期には、早くも社会が複雑化し始め、宗教的建造物「グレートキバ」も出現している(5)。西暦800年には、小規模な集落は、貯蔵庫が集まった建物となり、人々は、大規模なアパート式集合住宅で暮らし始める(2)。初期プエブロⅡ期(900年~)からは、チャコ峡谷の三カ所、ウナ・ヴィーダ、プエブロ・ボニート、ペナスコ・ブランコで、広い部屋と多くの階層、特殊な石細工を持つ後のグレート・ハウスを特徴づける建物の建設が始まり(5)、プエブロ・ボニートは920年頃には二階建てとなる(2)。西暦900~975年にかけては、7つの建物が盆地の南と西縁に沿って建てられ、975~1050年には、さらに別の9つの建物が建てられた。プエブロⅢ期初� ��(1050年~)には、少なくとも13ものグレート・ハウスが渓谷内やその近郊に建てられていた。前述したように、グレートハウスとは、精巧な石細工を備え、巨大な材木の屋根を持ち、それ以外のプエブロ族には見られない巨大な建築物である。最大のグレート・ハウスはチャコ峡谷内やその周囲に集中し、盆地北端のサン・ファン川やその周辺には少ししかない。一方、盆地周辺やチャコ川下流に散在するそれ以外のグレート・ハウスは、「外郭集落」と呼ばれ、70以上が特定されている(5)

 このような建物が作られたことは、社会の階層化が進み、チャコ社会が小型の帝国となったことを意味していた。すなわち、贅沢に暮らし、栄養状態がよく、身長も高く、幼児の死亡率も低いグレートハウスの居住者、丘陵外郭集落のグレートハウスに住み、チャコ峡谷のグレート・ハウスに居住するエリートと交渉する準エリートたちと、貧しい食事に従事し、わずかな部屋しかもたず労働に従事する農民の家と三段階になっていたのだ(1,5)。格差の進みぶりは、埋葬品からもわかる。後期プエブロⅡ期(1000~1050年)の峡谷のグレートハウスの埋葬者は21%がトルコ石を伴っているが、村の埋葬者は1%にも満たない(5)。グレート・ハウスからは、トルコ石、ペンダント、海の貝殻の装飾、銅製の鐘、飾り立てた陶器� �容器、ジェット・インレイ、水晶、コンゴウインコ、オウム他を含めた贅沢品が見つかっているが、これは、ミンブレやホホカム、メキシコと他地域から輸入されたものだった(1,5)

 ピーク時のチャコ峡谷の人口は4400~10000人に達していた。これは、生産性が低い地域農業や乏しい動物資源ではとうてい維持できない人数である(5)。自給できないにもかかわらず、都市が発展したのは、交易システムが発展したからであった。ごく初期から、チャコ人たちは周辺地域と交易を行っていた。例えば初期の陶器の20~80%は、南西80kmのシボラ・エリアからチャコへと交易されていた。チェトロ・ケトル峡谷にある遺跡では、チェトロ・ケトルを建てるため、26000本の材木のうち、6000本は、50km遠方の高地から得られ、残りは25km離れた山からの松材が用いられた。その後のプエブロII期には、南部50kmのレッド・メサ・ヴァリーから多量の装飾された陶磁器が輸入されていたし、1020~1120年にかけては、峡谷の遺跡、プ エブロ・アルトだけで約40500個もの陶磁器が、西部80kmのチャスカ山地から物品がもたらされていた(5)

 チャコ渓谷北側1.5kmにある「プエブロ・ボニート」は、600もの部屋があり、人口は5000人は超えていたが、この『33号室』の14の遺体は、56000個ものトルコ石、数千の貝製の装飾物を身に付けていた(1)。そして、プエブロ・ボニートから産出するトウモロコシの穂軸も外部から輸入されたものだった。また、それ以外のグレート・ハウス、プエブロ・アルトからも、多様な植物類や石器が見出されているが、これも外部から輸入されたものだった(5)。ストロンチウムの同位体分析から、9世紀にはトウモロコシは西に80km離れたチャスカ山脈から輸入され、12世紀の末期には、100km北のサン・ファン水系から輸入されていたことがわかっている(1)。こうした物資を輸送するため、チャコ峡谷と外郭集落は、9~10m� �の300kmを越す直線の道路網が計画的に計画・構築されたのだった(5)

エネルギー平均化システム

 チャコ渓谷が環境破壊によって900~1000年頃には自給できなくなっていたことについてはすでにふれた。すなわち、チャコ渓谷はさまざまな物資を外部から輸入しながら、何ひとつとして有形のものを輸出しないブラック・ホールとなっていたのだ。ではなぜ、外郭集落はなんら物質的な見返りを受け取らずに、木材、陶器、トルコ石、食料等を差し出して、義理堅く中心都市チャコを援助したのだろうか。ジャレド・ダイヤモンドは「それは、現在のイタリアやロンドン郊外農村が、ローマやロンドンを援助しているのと同じだろう。政治的、かつ、宗教的中心地として機能しているのだ」と述べているが(1)、ジョセフ・テインターの解説の方が、よりわかりやすい。端的に言えば、チャコ渓谷は、周辺地域の全コミュニテ� �がサバイバルするための安全を担保する情報センターとして機能していたのだ。

 サン・ファン盆地は、地形的にも均一で乾燥した平原である。盆地は、動植物の量も多様性も周辺部よりも乏しい。この制約条件の中で、生きのびるために最も有利な方法は、比較的水に恵まれ、多様性も高い盆地周辺の高地に居住するグループと交易をすることだった。温暖で乾燥した年は、低地は雨量が乏しいが、高地には長い生育期間と十分な水がある。一方、冷涼で雨量が多い年は、パターンが逆転し、低地には作付に適した水はあっても、高地の栽培シーズンは短い。こうして、バスケットメーカーⅢ期からチャコ峡谷の人々は、周辺高地と交易を始めてきたのだった(5)

 旱魃や霜といったリスクを抱えた環境においては、広い範囲から生産物を入手することは有利となる。例えば、流域北端のサン・ファン盆地から南端のレッド・メサ・ヴァリーに降雨量がシフトしても、西部のチャスカ産地近くに霜があっても、あるいは、ある地域が隣人から襲撃されるといった被害があっても、ネットワークシステムに参加すれば、豊作の年には過剰な生産物でネットワークシステムに貢献するかわりに、地元が不作となったときには、ネットワークから支援を受けられる。リスクは、全流域のコミュニティ間に分散化でき、各グループは、予測不能な乾燥地帯の気候の中で保険を得られ、安心して人口を増やすこともできる(5)。すなわち、各地域の降雨量が予測できない状態で、多くの場所に作物を植え 、降雨が十分にあって豊作に恵まれた場所から収穫した後、降雨に恵まれなかった場所に再配分するという方法が採用されたのだ(1)。この戦略をテインターは「エネルギー平均化システム」と呼ぶ。

 だが、各地元グループが、それぞれ取引相手の年間生産水準をチェックし、個別に相互経済協定を結ぶとなれば、その管理費は膨大なものとなり、無駄も多い。全情報を中央で一元管理し、その一元管理を地域住民全員が共同で支えるときに、コストが一番削減できる。サン・ファン盆地の中心に位置するチャコ峡谷は、盆地全域に及ぶ「エネルギー平均化システム」を管理するには、いちばん効率的で最小のコストしかかからない位置にあったのだ(5)

複雑な社会のメリットの喪失

 こうして繁栄を極めたチャコ社会だったが、プエブロ・ボニートが最後に増築されたのは1110~1120年で(1)、グレートハウスの建築は劇的に減少し、最後の建築期日はチャコ峡谷を見下ろすプエブロ・アルトの1132年で(5)、その後、チャコ渓谷は崩壊してしまう。

 崩壊の引き金となったのは旱魃だった。1050~1100年にかけては地域は比較的降雨に恵まれていたが、1130年から50年に及ぶ旱魃が訪れる(2)。渓谷は1040年頃と1090年頃にも同様の旱魃を経験していたが、今回は住民も多く、外郭集落への依存度が高かった。

「チャコに食料を供給していた集落は、雨乞いの成果を示せないチャコの司祭に対する信仰心を失い、それ以上の食料を提供することを拒んだのであろう」とジャレド・ダイヤモンドは結論づけ、旱魃と環境破壊をチャコ崩壊の理由としている(1)

 だが、ジョセフ・テインターの見解は違う。

「西暦1134~81年にかけ、長期化した旱魃がチャコ人の崩壊を引き起こしたと考古学者たちは考えているが、チャコの崩壊は、旱魃や環境悪化によるものではない。なぜなら、旱魃も環境悪化もチャコ人たちが十分に技術的に対処でき、それ以前の10世紀半ば、11世紀初期、そして、11世紀末期の旱魃にもチャコ社会は崩壊せずに生き延びてきたからだ。したがって、この旱魃が崩壊の十分な理由のようには思えない」と述べている。それでは、チャコはなぜ崩壊したのだろうか。テインターが注目するのが、外郭集落間の距離とシステムの効率性だ。

 初期プエブロⅡ期には、ネットワーク・システムに参加していた外郭集落は、盆地周囲の生産性が高く、多様性が高い土地に位置していた。初期のグレート・ハウスの平均距離は54 kmもあった。新たに加わる集落が、多様性が豊かで生産性が高ければ、新たな参加者が加わるほど、多様性も生産性も高まり、エネルギー平均化システムは威力を発揮する。チャコ人たちは、当初はこうした戦略を追求していた。

 だが、初期プエブロⅢ期に入ると、人口も増え外郭集落が増加し、それぞれが、グレートハウスを構築しようとし、峡谷内での建築活動が活発化し、それに必要な労力も増え、建築のための職能分化が進み、外郭集落間の平均距離も減っていく。初期プエブロⅢ期には、外郭集落の平均距離は17 kmにまで落ち、道路で接続された外郭集落間では、この距離はわずか12 kmにすぎなかった。後期プエブロⅢ期には、外郭集落数は17にまで減っていたが、その平均距離もやはり26 kmとなっていたのだ。そして、盆地南西部周辺にある五つの外郭集落の平均距離はわずか10 kmとなっていく。外郭集落間の距離が短くなるにつれ、それぞれ生産サイクルも類似し、その生産性の変動もさして違いがないようになっていく。

 既存のメンバーの資源ベースと類似したコミュニティが加わるだけでは、生産性の変動を緩衝するためのシステムの能力は低下するだけとなる。そして、最終的には、貧しく、さほど生産的ではない盆地内そのものからもメンバーが加わっていく。多様性が低い盆地内部に数多くの外郭集落が設立されたことは、この問題を悪化させ、初期プエブロIII期には、いっそう尖鋭化していく。集落が加わったことで、システムの多様性は落ち、参加する集落は、システムの重荷になるだけとなっていったのだ。


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 サン・ファン盆地の人々は、エネルギー平均システムという複雑さに投資することで、それに対する安全性という価値ある見返りを得ていた。だが、このシステムを当初の設定を越えてさらに拡張することは有利ではなかった。約1100年にチャコ人たちのシステムはその頂点にあったが、それは崩壊の前夜でもあった。100~150年前の先祖たちが手にしていたよりも、システムは、さらにコストがかかり、より少ない安全性しか引き出せなくなっていたのだ(5)

自発的な撤退

 ジャレド・ダイヤモンドは、チャコの集落で、人肉食があったことを指摘し、環境劣化による社会崩壊の悲惨さを強調している(1)。だが、ジョセフ・テインターの見解はもっと明るく、システム崩壊は自発的なものだったとしている。

「ネットワークがターゲットとする生産性が高いコミュニティーに対する強制参加、あるいは、他の人々の征服、貢物の賦課、井戸の掘削、ポット潅漑の実施、盆地周縁からバスケットやポットで作物用の水を輸入すること。このいずれも技術的には不可能ではなかった。チャコ人たちは、こうした戦略のどれかを試みることができたが、彼らは、その極端なコストのためにそうしなかったのである。そこで、サン・ファン流域の人々は、ネットワークには、もう参加しないこと。そして、最終的な旱魃という難題に対処しないことを選んだ。そうするコストが恩恵と比べて、あまりにも高くなったからである。崩壊と移住が経済的には望ましかったのだ」

 テインターによれば、経済的な観点からは、社会政治的に崩壊することが最も望ましかったのだ。

「チャコ人たちが直面していた限界生産性の低下傾向からして、この複雑な社会は、最後の旱魃があろうとなかろうと、結局は崩壊していたことであろう」

 さらにまずいことに、このシステム悪化は、建築に対する投資が著しく増えた時期と一致していた。システムに新たな参加者が加わることで、労働者が増え、彼らのための食料格納の必要性が増えたため、グレートハウスに収納室を構築するための大きな投資がされたのだ。見返りが低くなっても、さらにコストがかかることに投資していくことは限界収益の低下の典型例だ。もはやメリットがない複雑さに対し、さらに投資の拡大を支持するよう依頼されたコミュニティは、チャンスやセキュリティがそれ以外のところにあることを目にし、ネットワークから撤退することを決意する。まず、盆地南端がネットワークから、11世紀後半にまず撤退を開始した。このエリアには盆地内でも最も生産的な農地が含まれていたことから、彼� �が失われたことは、システム全体に対して大きな打撃だった。参加する外集集落の数も次第に減り、残されたものは、おそらくより弱く、自ら自立する能力がなく、地域に寄与することもより少なかった。だが、峡谷のエリートたちには、システムへの参加を強化することはできなかった(5)

 ブライアン・フェイガンは、撤退が計画的であったことを次のように描いている。

「人々は各地へと分散していった。移動という古代から続いてきた伝統が復活した。だが、彼らの移動はあてもなく食べ物を探す旅ではなかった。人々はコミュニティ同士を複雑に結びつけていた社会的関係や友情に頼った(略)。アサナジは、二度と自分たちの社会を複雑な大型船に作りなおそうとはしなかった。技術革新も行わなければ、新しい作物を試すこともなかった。以前と変わらない暮らしをそのまま続けた(略)。テワ族の古老の言葉にあるように『彼らはあるときやってきて、そのうちに腰を落ち着けたかと思うと、また立ち上がり、再び移動はじめた』のだ(2)

 グレート・ハウスの拡充を依頼されたとき、アサナジ族にとって幸いだったのは、チャコ社会が国家としては極めて未成熟であって、撤退、すなわち、自発的避難という手段を警察力やマスコミによるマインド・コントロールによって押しとどめることができなかったことだ。だが、もっと国家が精緻となり、システムからの自発的な撤退を拒むようになったらどうなるのだろうか。マヤの崩壊の事例を見てみよう。

【引用文献】
(1) ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊』(2005)草志社P215~247
(2) ブライアン・フェイガン『古代文明と気候大変動』(2008)河出文庫P343~350
(3) ウィキペディア「チャコ文化国立歴史公園」
(4) ウィキペディア「バスケット・メーカー文化」
(5) Tainter, Joseph (1988), The Collapse of Complex Societies, New York & Cambridge, UK.

2012.4.3

没落論を始めます

 今日から新年度です。今年度もまた農業大学校でお世話になることになりました。もちろん、これは、個人ブログなので、学校とは一切関係がありませんが、自分なりに新年度のブログの新講座名を考えてみました。「没落論」です。

 なんとまあ、辛気臭い名称ではありませんか。とはいえ、没落は実は、ベストな選択なのです。

 いま、書店には、萱野 稔人、神里 達博さんの『没落する文明』(集英社新書) という本が並んでいます。五木寛之さんの『下山の思想』に続いて、とうとう「没落」という辛気臭い名前をストレートでぶつけた本が登場し、かつ、ベストセラーになっているというのには驚きます。

 私自身、「没落」にも「文明」にも関心があり、「没落」と「文明」をキーワードにいれた本は書いてきたのですが、まさか、この「没落」と「文明」の単語をダイレクトに合体させる手があったとは想定外でした。

 さて、この春から探っていけるのは、「どうすれば文明を没落させられるか」です。

 えっ?。

 おそらく、萱野 稔人さんの著作を手に取られる方の脳裏にあるのは、「ああっ。文明は没落してしまうかもしれないのか。厭だなぁ。でも、没落しない手はあるんじゃないの」というゆるかやかな世界観です。

 ですが、私が「どうすれば文明を没落させられるか」と口にする時に、その背景にある世界観は、「もはや、近代文明の没落は避けられないどころか、下手をすればカタストフィックな大崩壊につながりかねない。それをギリギリ、ゆるやかな没落程度にくいとめるにはどうしたらいいのか」というより根暗なものなのです。

 こうした発想を抱くヒントとなったのは、ジョン・マイケル・グリアの「異化崩壊論」と「長き没落」を読んだからです。グリアは、日本語で検索すれば、高橋和子(翻訳)「失われた超先進文明 アトランティス」(2011)徳間書店がヒットします。アトランティスといい、徳間書店といい、それだけで「とんでも本」を予感させますし、ネットで画像を調べるといかにも危ないおじさんです。

 ところが、グリアはいわゆるアカデミーの人物ではなく、フリーの作家ですから、その発想は柔軟なのです。

 例えば、ピーク・オイルや文明崩壊関係で検索すると名著としてあがるThomas Homer-Dixonの「Up side of down」は、環境、人口増加、テロの危機、格差の広がり等をあげ、いかに現代文明が危ういかを詳細に分析しています。ところが、では、解決策はというと、「これからは想定外の危機が立て続けに起こるだろう。だから、予想するマインド、いわば想定力が必要なんだ」として終わってしまっています。

 同じく名著とされるRichard Heinbergの「The End of Growth」もピークオイルからピークリン、農業の衰退、マネー経済の崩壊と詳細に、これでもかこれでもかというばかり、経済成長が限界にあることを分析していきます。ところが、では、解決策はというと、「これからは成長以外の生き方が必要となるだろう。だから、ブータンのGNPとかを参考にして、トランジションタウンをつくりましょうよ」として終わってしまっています。

 で、このRichard Heinbergの最後の7章に、参考とすべき著作としてグリアの本、『The Ecotechnic Future」が少しだけ紹介されているのです。

 ですが、私がグリアの存在を知ったのは、ジョセフ・ティンターの文明崩壊論をベースにグリアが、より詳細な「異化崩壊論」を提唱していたからでした。ティンターは、ローマ、マヤ、アサナジの社会がなぜ崩壊したのかを見事に暴きだしました。ですが、グリアは、それとは違う社会もあるとして、中国を例にあげます。グリアによれば、中国は夏王朝の時代から、強力な中央集権王朝が出現し、隆盛衰退し、バラバラに解体しては、再びそこから中央集権王朝が出現すると言うサイクルをなぜか繰り返しているのです。

 そこから、グリアは、現代の人々が陥っている二つのパラダイム、すなわち、成長しなければならないという神話と、ある日すべてが崩壊すると言う神話の両方を退け、これからは文明は、100年とか200年をかけ、ゆるゆると没落していく。その中で、どのようなライフスタイルと文化を子孫に残すべきかとリアルに、かつ、イマジネーションたっぷりと説いていくのです。

 グリアはトランジション・タウンは支持します。とはいえ、「タウン」にグリアがこだわるのには、絶望があります。もう、ナショナルやグローバルなレベルでトランジションをする時期はとっくに過ぎてしまっていて手遅れだというのです。グリア流の表現をすれば高速で飛ぶジェット飛行機を軟着陸させる時期はもう過ぎてしまった。後は飛び降りるしかないが、生身で落ちるよりは、パラシュートがあれば、少しは怪我が小さいだろうというのです。

 グリアは、電卓と計算尺を例にとり、電卓のようなハイテクは後世の子孫からは無用の長物だとされるだろうと釘を刺します。ソーラーパネルのようなハイテク部品を維持できる余力は石油が枯渇した未来には人類はないため、電卓も壊れたら直せないと主張するのです。ですが、グリアは原始石器時代にまで舞い戻るとは考えません。現代産業社会が残した自動車のバッテリーやモーターといった19世紀的な技術は十分にサルベージできるし、そうした技術を修理・回復できる職人の育成こそが一番大切なのだと主張します。

 さらに、グリアは後世の子孫たちが20世紀の遺産として、最も感謝する技術は、アポロの月着陸でも、DNAの二重らせんの発見でもなく、持続可能に食料を生産できる有機農法だろうと述べています。

 私自身は、有機農法では放射性物質が濃縮されるため、全国津々浦々まで瓦礫を焼却することで、日本国土をセシウムやウラン漬けにする偉大なる民主党政権の政策によって、もう有機農業の未来は終わったと思っています。本当にすばらしい政策です。が、それでも、グリアの未来には、CDやパソコンもないのだから、そうした情報媒体は役に立たなくなるという予言性には感動します。

 つまり、この列島の土地は死した土地であり、作物を作るにあたわずという、巨大な石碑を、おそらく、日本語は消滅しているでしょうから、他の生き残った大陸からやってくるであろう人たちのために、他の言語で書き残しておかなければならないのではないかと思っているのです。

 もちろん、これは極論であって、民主党政権が瓦礫の焼却を止めてくれ、他の原発がはじける予防策をちゃんと講じてくれれば、汚染がされていない長野の一部、さらにそれ以西の西日本はまだなんとか生きのびられる可能性があるとは思っていますが、ともかく、憂鬱な原発問題は避けながら、なぜ、文明が崩壊するのか。それを没落でとどめるためにはどうすればいいのかを考えていきたいと思っています。

2012.2.13

変なところでキューバと出会う


 先週、ネットで注文していたテインターの2002年の共著『supply-side sustainability」本が届きました。タインターはプロジェクトのリーダーなのですが、共著者の一人、アレンはウィスコンシン大学の植物学者、もう一人のトーマスも植物学者です。巻ページの紹介文では、二人のエコロジストと一人の考古学者によるこの本は、エコロジストと社会科学のジレンマを解消するアプローチを提示している。景観、組織、人口、コミュニティ、バイオマス、生物圏、エコシステム、エネルギー、持続性、人間社会の崩壊までを論じているとあります。

 もともと理系の地球科学を出発点とする私にとっては、複雑怪奇に見える文明社会の崩壊や先住民族のライフスタイルを生態学や複雑系の言葉を用いて、グラフやモデルで解き明かしていくアプローチは妙になじみます。これについてもいずれご紹介していきたいと思っていますが、作業が中断していて申しわけありません。

 さて、お話は飛びますが、来週、2月18~19日と長野の上田市で開催される「持続可能な地域作りの全国フェスタ」では、田中優氏と鎌仲ひとみさんのダブル講演会が開催されます。とりわけ、1日目のトークセッションは立ち見になるほどだそうなのですが、ミーハーな私としては、サインをもらえるチャンスもあるのではないかと思い、この2月10日に出たばかりの、デレク・ウォールの「緑の政治ガイドブック」(ちくま新書2012)「鎌仲ひとみ×中沢新一の対談つき」を買いました(鎌仲さんの本も、田中さんの本も他に何冊も持っていますが)。

 さて、この著者は、グリーンレフトに属する経済学者です。持続可能な経済や公正な社会政策等、緑の運動や緑の政治についてのコンパクトな入門書となっています。

 で、今日のお題です。まず、ページを開き、冒頭の推薦の言葉を見て驚かされました。米国やEU、ニュージーランドの緑の党の関係者と並んで、キューバの社会運動家の名が登場しているのです。

「んっ。緑の党の入門書になんで、赤き社会主義国のキューバが」

 という違和感があったのですが、ページをめくるうちに、その違和感はすぐに解消しました。

 この本の第二章は温暖化問題を扱っているのですが、こう書いています。

 人類は様々な問題を抱えているが(略)、具体的な代替策を示すことができるのは緑の政治だけである。すでにその実践例は、既成政党の政治家にとっては思いもよらない国・・・・キューバにある(P52)

 世界の中には実際に、持続可能な発展の仕組みを作り上げた国が一つある。その国では生活水準を上げながら、環境への影響を抑えている(略)。その国とは「キューバ」である。この国では、化石燃料への依存度を低め、一人あたり排出量を大幅に引き下げた。ただしキューバが昔からの緑のモデルであったわけではない。環境大臣さえ存在しなかった。ところが、1990年、ソ連邦が崩壊したため、ロシアから安価な石油を輸入できなくなった。エネルギー不足に直面したキューバは、グリーン・エネルギー計画に集中的に取組んだ(P68)

 オーストラリアのビル・モリソンが生み出した「パーマカルチャー」もホーリスティックなアプローチを現実社会で具体化したモデルであり、キューバで実施されている(P88)

 第三章は緑の哲学について、ディープ・エコロジーやエコ・アナーキズムを紹介していくのですが、ここではフィデルが登場します。

「エコ社会主義」も緑の政治に重要で多様な思想性を与えており、深く検討する価値がある(略)。マルクスと「エコ社会主義」に対しては批判もある(略)。ソ連などの社会主義国はマルクス主義に追従したために、環境を劣悪な状態にしたという批判である。それに対する反論として、「エコ社会主義者」は、「マルクス主義とエコロジーには接点があった」と主張し、その証拠として環境に強い関心を持っていたキューバのフィデル・カストロ元議長をあげる(P97)。

 第六章の生き残りをかけた戦略ではトランジション・タウンやグリーン・ニューディールが紹介されていくのですが、ここにもキューバは顔を出します。

 現実の世界で「トランジション・タウン」に最も近い例がキューバである。大規模にパーマカルチャーや低エネルギー社会への移行策を導入している。ただしキューバの場合、最初から明確な目標を持っていたわけではない。突然、安価な石油の輸入が止まったことによって強いられた戦略だった(P180)

 それでも緑の政治はコペンハーゲンで前進した。キューバ、ベネズエラ、ボリビアなどラテンアメリカの指導者たちが、経済的利害関係より「地球に対する敬意」と「社会的公正」を優先させることを要求したからだ(P195)

 この本はキューバのパーマカルチャーを都市農業を評価しています。

 こうしてハバナでは果物と野菜のほとんどを自給しており、人々を飢餓から救うことができた(P69) 

 もちろん、このブログを訪れる読者は、「キューバ研究室」の尽力によって、この主張がたんなる幻想にすぎないことが論破されてしまっていることは、よくご存知でありましょう。同研究室によれば、キューバは持続可能な国家でもないといいます。

 日本語が読める私たち日本人は、このように優れた日本語のサイトの存在によって、英国の緑の運動家といえども、所詮はこの程度の知識水準であって、現状認識に欠く幼児のようなものだということがよくわかるわけです。

 とはいえ、このような入門書にもキューバが顔を出すという事実の方を私は重視したいと思うのです。とりわけ、ホットなキーワードであるトランジション・タウンやピーク・オイルとキューバが結び付けられていることが。

 つまり、真実が違うにせよ、それに至る前提として、英国の運動家も話題にするほど、キューバが一定の評価は得ているのだという事実は、最低限の教養として知っておかなければならないのだなと私は感じたわけなのですが、皆さんはどうお思いになりますか。

2012.2.2

防災と防衛

防災本のご紹介

 このところ、ブログが中断していてすみません。書くことはさぼっていますが、勉強ネタの仕入れの手を抜いているわけではありません。

 まず、防災本の自己宣伝です。「リスク対策.Com」という危機管理の専門誌第29号の1月号で「フォーカス:相次ぐハリケーンから国民を守る、世界が注目するキューバの防災」として、キューバの防災について紹介をいただきました。どうもありがとうございます。

 また、「平和に生きる権利の確立をめざす懇談会」の1月31日のブログで以下のように紹介していただいております。

「むろん、社会主義キューバが天国でも何でもない、自由に制限があり貧しい国であることは、私も見て知っている(略)。しかし、この復興のありかたというのは、すごいではないか」

「キューバの軍と地域住民との共同による警戒・避難システムは、本来、米国からの軍事侵攻に対抗するためにつくられたものだったという。しかし、もう米軍が大挙してキューバに侵攻・占領する事態は考えにくい。キューバの市民防衛のありかたは、自衛隊の災害対策部隊への再編にも、示唆を与えていると思う」 

 なるほど、自衛隊ですか。関廣野さんも『フクシマ以後 エネルギー・通貨・主権』青土社(2011)で、自衛隊について言及されていましたが、キューバの市民防衛は、防衛についても参考となるわけですね。

 防災にからんで、若干、防災と防衛についての本のこぼれ話をします。キューバではハザードマップを作成していますし、キューバのリスク削減センターの国連リポートを見ると画像は悪いのですが、図のようなハザード・マップが掲載されています。ですが、本ではこのハザード・マップは掲載しませんでした。画質が悪いこともありますが、本当かどうかわからないからです。

 共著者である中村八郎さんからは、9月にキューバを再調査した折には、是非ともハザード・マップの写真や資料等をもらってきてほしいと頼まれました。そして、実際にムニシピオの防災管理センターにはハザードマップはありましたが、「絶対に写真を取らないでほしい」と頼まれたのです。

「そんなこと言ったって、国連のリポートにキューバのマップは、ちゃんとでているじゃぁないですか。たかが地図ぐらいオープンではないのですか」と聞いたところ、

「ああ、そのリポートのマップは、たぶん偽物かでたらめだ」

と言われました。

 その理由を聞いて、なぜ出せないかがすぐわかりました。事前に読んでいた防災の専門家、ベン・ウィスナー博士のリポートには、ベトナム戦争のときに米軍は、ここを壊せば洪水が起きるという堤を狙って爆撃したという書いてたことが思い出されたからです。つまり、防災は国防や軍事とも密接しているわけです。

 ハザード・マップは、有事の場合に自国民の命を守るための貴重な情報です。日本の国土地理院の前身も内務省だけでなく、帝国陸軍の参謀本部の測量局にありました。ですから、私の愛国保守、すなわち、右翼的な感性からすれば、ハザードマップを外国人にはとうていオープンにできないという、キューバの感覚はよく理解できます。

 一方、放射能のハザード・マップというべき、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)による試算結果は、自国民には明らかにされない一方で、米軍にはオープンにされました。

 このブログを訪れるであろう皆さんは、私のような右翼的な感性はなく、左翼的な感性の持ち主であられる方が多いので

「ああ、日本はもはや旧軍事国家ではないのだ。キューバの如き秘密主義の軍中心の国家ではなく、以前の敵国であった米国にすら隠し立てせず、いち早くハザード・マップをオープンにするくらい、開かれた国となったのだ。なんと素晴らしいことだろう」

 とお感じになるのでありましょうか。ちなみに、4号機の水が漏れているという情報も在米邦人の情報の方が充実しています。

実験が大切

 さて、防災本で書いたとおり、キューバの防災システムは、驚嘆すべき叡知を持つ全能の神とも言うべき、秀才たちの机上プランによって作り出されてきたものではありません。何度も繰り返されるハリケーン災害で貴重な人命損失を出しながら、「今度、人命の損失を出さないようにするためには、どうしたらいいのだろうか」と失敗への反省をしながら、ゆっくりと構築されてきたものです。

 20世紀のパラダイムでは、驚嘆すべき叡知を持つ神の如き秀才・英才群が古今東西の知識や理論を集約することによって、問題解決のための「真理」を見つけられるはずだ、という想定の元に政策が構築されてきました。ですが、レジリアンス学派は、複雑系である社会生態システムにおいては、未来を予知することは不可能であると断言します。

 想定外の事態はあたりまえである、というのが彼らの主張です。であるならば、私たちはどのように問題解決に対応していったら良いのでしょうか。

 彼らは「安全な失敗」という独特な概念を持ち出します。つまり、社会が複雑化している以上、単独の解決策はないし、わからない。であるならば、政策もある種の「実験」とみなし、トライアンドエラーを繰り返していくしかない。しかし、実験である以上、当然のことながら想定外の事態に失敗も起きる。問題は、その失敗が許容できるかどうかだ。そう考えるわけです。

 さて、崩壊論のネタとなっているタィンターの本は読み終えたのですが、大ローマの崩壊理由のところでストップしてしまいました。ローマについての予備知識や基礎教養がない私は、皇帝の名称やらが次々と出てきても、イメージがわかず、塩野七生さんの「ローマ人物語」の写真集を見たり、読んだりしていたのですが、トーマス・ホメール・ディクソンが、ローマ崩壊をエネルギー面から分析していたことを思い出し、そちらを読み始めたところ、面白くて、脇道にそれてしまったのです。


 トーマスの本は、450ページもあるのですが、ローマ農業のエネルギー分析から始まり、崩壊について、タインターとホリングの理論を使いながら、最終的には、避けられない崩壊に対するプレッパーとなれ、と提唱しているのですが、その間でも、なぜ経済成長が止められないのか、幸せとお金が関係しないこと、経済成長を止めないために、アカデミックは独特の「話法」を使うこと、地震が怖いこと、ネットワーク理論からつながりが増えると想定外の事故が続くとチェルノブイリやスリーマイルの原発事故を分析して見せる等、重要な分析を次々と展開しています。ということで、ネタが充実するまで、しばらくお待ちください。

2012.1.21

東大話法と満州国

キューバの防災の取組みが紹介されました

 1月20日販売の雑誌「エココロ」の最新号「愛しのグランマ」に枝松麗さんが「キューバの防災と脱原発」と題し、幸せ経済社会研究所が行ったオープンセミナーのリポートを秀逸な文章でまとめていただいております。

 本の書評もそうですが、優れたルポライターやジャーナリストは、著者が潜在意識として語りたいと思っていることを言葉の断片から捉え、濃縮して二次加工した表現でアウトプットすることにより、「そうか、私はこういうことを言いたかったのか」と話した本人も再納得するような処理を行うことができます。枝松麗さんのリポートもそうした優れた濃縮事例で、わずか2Pながらキューバの防災と脱原発と幸せについて考え直す機会を与えていただきました。この場を借りてお礼をもうしあげます。

 さて、このリポートでも紹介されていただいたキューバのマリオ・アルベルト・アビラさんから、「機会があれば日本でキューバの再生エネルギーについて講演をしたい」というありがたいメッセージがはいってきました。

 また、昨年の12月29日のブログでは「海を超えて広まりゆく没落コンセプト」と題して、防災本の台湾訳が決まったと報告しましたが、韓国からも「防災本」を翻訳したいとの問合せが来ました。まだ、出版してから1月強しか経っていないのに、外国から反響があるというのはまことに嬉しい話です。

 とはいえ、「だとすると、なぜだろう。なぜ、台湾や韓国でキューバの防災やエネルギー問題が関心がもたれるのだろうか」とつい考えてしまいます。

 地震がある台湾はまだしも、安定した大陸の上に乗る韓国は原発はあるにしても地震はないではありませんか。それに、あれほどの地震被害を受けてすら日本の原発事故はすでに冷温停止し、無事収束してしまったではありませんか(1月20日の降雪では都内でセシウムが検出されたという説もありますが)。

 ということは、海外ではまったく違う形でこの日本の被害が受け止められているのではないでしょうか。そう思ってネットを検索してみると奇妙な記事がヒットします。例えば、1月17日には「Peace Philosophy Centre」に「日本政府は米軍の安全を日本市民の安全より優先させた」という記事が出ています。

 また、ニューヨークタイムズが「原発事故に関する日本政府の説明に『異議あり』」という記事を書いています。

 日本国政府の主張が海外から信用されていない。これは、まるで過去の満州国のリットン調査団を思わせるものがあって、まことに気が滅入ってきます。

利潤があがっていなかった満州国

 話が飛びますが、安冨歩東大教授の「東大話法」があまりに面白かったため、続けて、「生きるための経済学」(2008)NHKブックスや「経済学の船出、創発の海へ」(2010)NTT出版も買って読んでいます。とりわけ、面白かったのが創発の海のでている満州の指摘です。

「私は満州国の金融のなかで、満州国を巡る資金の流れを徹底的に調査したが、それは実に驚くべきものであった。戦時期に膨大な投資が満州になされたが、そこからの日本への見返りは極めて限られていたのである。満洲への投資は日本社会にとって非生産的であったばかりではない。目先の戦争の役にすら立っておらず、むしろ日本の足を引っ張っていた。何の役に立ったのかというと、軍人と官僚の出世の役に立っただけというように私は感じている」(P171)。

 この満州崩壊説は、属州が帝国の役に立っていなかった、というティンター教授のローマ崩壊説とシンクロします。安冨教授の本が面白いのは、経済学を出発点に複雑系をきちんと勉強され、それを踏まえ、社会生態学を構築されようと模索されていることです。

温暖化防止という東大話法

 さて、改めてテインターです。ベストセラー『文明崩壊・下』(2000)草思社の著者、ジャレド・ダイヤモンド教授は、第14章で、こうテインターを批判しています。

「社会の崩壊を扱った書物で、おそらく最もよく引用されるのは、考古学者ジョーセフ・テインターの『複雑な社会の崩壊』だろう。古代の崩壊に関するさまざまな解釈を検討するうえで、テインターは、それらの崩壊の原因が環境資源の枯渇にあるらしいという可能性にさえ、懐疑的な姿勢を保った(略)。つまり、テインターの理論は、複雑な社会が環境資源の管理に失敗して自滅するとは考えにくいと示唆している。しかし、本書で論じたあらゆる事例から見て、まさにそういう失敗が繰り返し起こっていることは明らかだ」(P217~218)。

 そして、ダイヤモンド教授は2012年1月3日の朝日新聞の特集記事で、原発を捨てるな、と提言しているのです。

「けっしてフクシマの悲劇を軽んじるつもりはありませんが、原発事故もまた『リスクが過大評価されがちな事故』の典型例です。私たち米国人もスリーマイル島原発の事故の後、1人の死者も出なかったのに、新しい原発の建設をやめてしまいました。それはあやまちだったと思います。原子力のかかえる問題は、石油や石炭を使い続けることで起きる問題に比べれば小さい、と考えるからです。たとえ原子力の利用をやめたとしても、しばらくは化石燃料にたよらざるをえません。放射能の危険性と同時に、化石燃料の危険性も考えるべきです。二酸化炭素による地球温暖化はすでに、大きな被害をもたらすサイクロンなどの熱帯低気圧を増やしていきます。放射性廃棄物は地下深くに封じ込められますが、放出された二酸化炭� ��は200年間は大気中にとどまるのです。いま一度、『現実的になろう』と言わせてください。原発事故や地震で、文明が続く可能性がそこなわれることはありませんが、二酸化炭素は現代文明の行く末を左右しかねない問題なのです」

 えっ。学生時代の愛読書であったガイア仮説の提唱者、ラブロックが原発推進論者であったことは知っていましたが、ダイヤモンド教授も原発推進論者であったことは意外でした。

 環境破壊で文明が滅びるのではないというテインターの理論は間違っている
 温暖化という環境破壊で文明は滅びる可能性がある
 原発はクリーンなエネルギーである
 したがって、文明崩壊を避けるためには原発を捨ててはならない

 どうも、これは、安冨教授の言う東大話法のように思えます。もっとも、ジャレド教授は、ハーバード大学卒で東大卒ではないのですが。

 これに対して、テインターは「私たちはどのように危機を受け入れればいいのでしょうか」というインタビューでの問いかけにこう答えています。

「こうした質問がよく寄せられます。そして、以前にそうであったほど、私は楽観的ではありません。新たなエネルギー源が必要となるのは確かです。ですが、新たにエネルギーを作り出すことはそれ自身の問題を生じさせます。時間がたてば、私たちがこれに対処することになります。私たちは原子力とその廃棄物についてこれを予測できます。いわゆる「グリーン」エネルギー源でさえ、環境的なダメージが大きくなるでしょう。私たちの適合のすべては短期的です」

 そこで、エネルギー問題について、テインターが最近何を考えているのかを調べてみました。

 すると、さすが、テインターです。バズ・ホリングの複雑系理論に言及しているだけでなく、ローマ崩壊とビーバーの巣づくり、そして、葉を原料にキノコを栽培するハキリアリをエネルギー収支率(EROI=Energy Return On Investment)から分析した論文も見つかりました。ハキリアリについては拙著「知らなきゃヤバイ!"食料自給率40%"が意味する日本の危機」(2010)日刊工業新聞で紹介したことがありますし、山内昶さんの「経済人類学への招待―ヒトはどう生きてきたか(1994)ちくま新書に登場する先住民たちの労働時間や暮らしにもふれています。

 さらに、崩壊した西ローマ帝国に比べ、ビザンチン帝国が存続した理由は、組織のシンプル化であったと分析しています。

 テインターによれば、西ローマ帝国はその膨れ上がった莫大な軍を維持するため、帝国全土に増税を行い、結局軍事費に耐えきれず崩壊してしまったのですが、ビザンチン帝国も同じく軍事費の負担に耐えられなくなったとき、驚くべき戦略を取ります。

 高等教育をあきらめ基礎的な識字力と算術だけにし、同時に兵士には自給農地を配布し、いわゆる屯田兵制度による軍事費削減と防衛力、愛国心を育成したのでした。

 テインターによれば、複雑化した社会がたどる方向性は三つしかありません。

 ① 複雑さをますます高め、ある日、想定外の事態によって破局的に崩壊する(西ローマ帝国)
 ② 複雑さを維持するため、他国から資源を奪うかエネルギー補助金に頼る(西ヨーロッパ→これからはピーク・オイルで無理、原発も資源枯渇と廃棄物処理で同じ)
 ③ 複雑さを投資見返りがある程度まで、シンプル化する(ビザンチン帝国)

 経済危機当時に、当時の軍務大臣であったラウルによるキューバの軍事パレードのフィルムは見たことがあるのですが、驚くべきことにその時登場したのは、ミサイルでも戦車でもなく、自転車に乗った兵士たちでした。まるで、旧我が帝国陸軍の銀輪部隊です。これもテインターのビザンチン帝国サバイバルの戦略を想起させます。

 複雑系を意識しているかどうか。これが、東大話法であるかどうかをチェックするひとつのキーワードになるかもしれません。

 とにかく、テインターは持続性についてもまったく独自の見解を持っているので、続けて勉強しなければならないと思っています。

2012.1.18

崩壊論・間奏曲(3)


 カタストロフィー論の補足です。2012年1月16日に行われた東京電力福島第一原子力発電所の事故原因を究明する国会の「事故調査委員会」の質疑で、文部省は、放射性物質の拡散状況を予測する「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム」(SPEEDI)による予測データを事故直後に米国に提供していたことを明らかにした」という情報がでていました。

 また、ミノア文明(クレタ島)は、火山噴火によって崩壊したようではなさそうですが、噴火したテラ島(サントリーニ島)そのものは、火山の大爆発によって実に島の半分が吹き飛んでしまっています。そして、残された島の南部には、クレタ島に匹敵する大規模な都市遺跡「アクロティリ遺跡」があったことが知られています。

 そこで、こんなフィクションを作ってみました。

 昔むかし。タラ島にはアクロティリと呼ばれる都がありました。都には、「韋駄天」と呼ばれる火山噴火の警戒システムがありました。火山のすぐ近くにはたえず見張り所があり、煙や地鳴りに異常があれば、島で一番の足の速い若者が宮殿へと駆け込み、その宮殿の指令によって各町々の半鐘を鳴らして、島民たちに警戒を呼びかけるというものでした。

 実際にはるか昔の噴火では、この「韋駄天」によって島民たちが未然に火山弾が飛んでこない安全地帯まで避難し、女子どもすらも怪我をすることもなかったという長老たちの言い伝えが残されていました。そこで、島民たちは昔からの慣わしを大切に守ってきたのです。「韋駄天」は島人から命の守り神として讃えられ、多くの若者が「韋駄天」に選ばれることを誇りに思っていました。そして、ある日、この見張り所の警戒網が鳴り響きます。

 大地のゆれで何度も転び、手足を擦りむきながらも必死となって宮殿に駆け込んだ若者は、昔のおつげどおり直ちに半鐘をならすよう宮殿の指導者たちに訴えました。

「神の怒りです。昔のおつげどおり、大地が呻き、夜には赤い火すら見えるのです」

 ところが、宮殿の指導者たちは奇妙なことにこれを無視しました。「直ちには問題ない。島民は避難するに及ばず」というのが、指導者たちの判断でした。ところが、そういって住民たちを安心させる一方で、はるか離れたクレタ島にはなぜか「もしかしたら、うちの島が噴火して、その火山灰の影響があるかもしれない」とまず一報を入れたのです。

 もちろん、噴火にはまだ数日間の余地がありました。ですから、適切な避難指示があれば島民たちは逃げられたのです。ですが、安全といわれたために住民は逃げませんでした。そして、実際に噴火が起き、数多くの子どもや女性たちが死んでしまうのです。

 この噴火に衝撃を受けた島の古老は警告を発しました。

「わがテラ島への神の怒りはいまだにおさまっていない。いまも大地は安定せず、日々うち震えているではないか。必ず第二、第三の神の怒りがあるに違いない」

 ところが、宮殿の指導者たちは、またしても、この古老の警告を無視しました。

「過去の記録を見てみるがいい。一千年の永きに及び噴火の記録はないではないか。つまり、今回の噴火は千年に一度の例外的なものであったのだ。我が文明の繁栄を見るがいい。神の怒りが再び落ちることは断じてない」

 安定しない大地の上で不安におびえる住民たちをなだめるため、宮殿の主催によって噴煙がまだおさまらない爆裂地の近くでわざわざ祭りを開いたり、巫女や神官が呼び出され、毎日のように「島はもう安全である」という根拠なきお告げが繰り広げられました。

 島から逃れようとする島民は罵しられたり、石をぶつけられたりし、噴煙をあげる火口の近くにわざわざ移り住んで、居を構える者が英雄として讃えられました。もっとも、宮殿の指導者たちは誰一人として移り住まなかったのですが。。。。。

 そして、壊れた見張り所や半鐘も直しませんでした。そんな余計なことをすれば、余計住民が不安がるに違いなかったからです。韋駄天であった若者もその仕事を失ってしまいました。

 そこで、古老は韋駄天であった若者と一緒に、神官や巫女たちの罵倒に屈することもなく、毎日のように辻に立っては、島人たちに神の怒りが近いことを訴え続けていました。そして、この古老の予言は不幸にも的中してしまいます。

 一年もたたずして、島はさらに大きな噴火を引き起こし、半分が吹き飛んでしまったのです。日々警告をしていた古老や韋駄天であった若者を含め、ほとんどの島民たちはこの噴火の巻き添えを食って死にました。もちろん、宮殿の指導者や神の怒りはおさまったとでまかせのお告げを口にしていた神官や巫女たちが、ひそかにクレタ島へと逃げ去った後のことでした。こうして、アクロティリ文明はアトランティスの逸話だけを残し、歴史から永遠に消え去ってしまったのです。

 はい。もちろん、これは作り話です。ですが、もしこのような事実が仮にあったとするならば、後世の歴史家たちは、アクロティリ文明の指導者、エリートたちのことを「アンポンタンのノータリンのクルクルパー」と評価するにちがいありません。この想定の物語は、まさにカタストロフィーが仮にあったとしても、それで文明が崩壊するとするならば、それは「天災」ではなく「人災」のためであることを例証しています。であるとするならば、文明はエリートたちのミスマネジメント、すなわち、人災によって滅びてしまうのではないでしょうか。

 ところが、テインター教授は、「文明はたかがエリートたちのミスマネジメント程度で滅びるような代物ではない」と述べているのです。なぜなのでしょうか(続)。

2012.1.18

崩壊論(4) カタストロフィーで文明は崩壊する?


カタストロフィー論へのプロローグ

 今回の崩壊論のお題は、カタストロフィーがテーマですが、今日もチェ・ゲバラからお話を始めたいと思います。有名なゲバラの霊廟はビジャ・クララ州の州都サンタ・クララにあるのですが、この近郊の山地から白亜紀末にユカタン半島に激突した隕石の痕跡をとどめる地層が、東大の松井名誉教授のグループの調査によって発見されています(2010年5月13日のブログ、隕石衝突事件参照)。この隕石激突により恐竜は絶滅したといわれています。

 もっとも、『オックスフォード・サイエンス・ガイド』(2007) 築地書館を読むとこの隕石激突とほぼ時代を同じくしてインドでデカン高原を産み出した大噴火が起きているとの興味深い記述が出てきます。インドとメキシコはちょうど反対側。こちら側に隕石がぶつかったため、あちら側が衝撃で割れてマグマが噴出したのではないか、と素人ながら勘ぐりたくなっていたのですが、2009年10月19日のナショナル・ジオグラフィックには『恐竜絶滅の決定打はインドの隕石?』という記事が出ています。

 この説によれば、ユカタンに直径10キロの隕石が激突した約30万年後に、今度はインドの西岸沖に直径40キロの隕石が激突。地球上で確認された最大のシヴァ・クレータを形成したといいます。衝突カ所の地殻はたちまち蒸発。高温のマントル物質が噴きあがり、既に盛んになっていた噴火活動もこの激突で促進されたらしいのです。

 今度は別のキューバの話題を紹介します。キューバの有機農業を邪魔するため、以前に米国が害虫ミナミキイロアザミウマを飛行機で空から散布したという話があります(2006年9月27日のブログ、ミナミキイロアザミウマ参照)。都市伝説ではないかと勘ぐりたくもなりますが、世界的な病害虫の研究者、桐谷圭治さんの『ただの虫を無視しない農業』(2004)築地書館を読むと、「まさかそんなことが」と疑問に思った博士が米国の研究者に確認したところ、「意外にも『パシブルだ』という答えが戻ってきた」というエピソードも出ています。もっとも、アザミウマが発生したことは事実だが、ハリケーンによって運ばれたのではないか、という判断もあります。

 さて、この二つのキューバのエピソードによって、今日のテーマ、カタストロフィー崩壊論への準備が整いました。

病気が文明を崩壊させる

 大ローマはマラリアによって崩壊したという説があります。紀元前218~204年のハンニバルの侵攻でイタリアが荒廃し、これに引き続く広大なエリアで農業が放棄されたことが、マラリア蔓延につながり、これが帝国を衰退させたというのです。1月16日のブログではローマが美徳を失ったため崩壊したとの説をご紹介しましたが、この主張によれば、ローマ人たちがモラルを失い退廃したそもそもの原因はマラリアのせいなのです。

 また、マヤ文明も病気の蔓延で崩壊したのではないか、という説もあります。例えば、ブリューベーカーは、東部カリブ海からマヤ低地地帯へとハリケーンによってもたらされたトウモロコシ・モザイク・ウィルスが凶作を引き起こした。そのためにマヤは崩壊したのだ、と主張しています。そして、参考としてアイルランドで400万人もの住民の死や移住につながった1845年のジャガイモ胴枯れ病を引用しています。

ミノア文明は火山噴火では滅んだ?

 ハリケーン、火山の噴火、地震、そして、病気が文明を崩壊させるという理論は過去から提唱されてきました。古くは、プラトンの「クリティアス」と「ティマイオス」でアトランティスの滅亡が登場しますし、聖書の洪水の物語もこのテーマです。

 火山の爆発による文明崩壊説は、1939年にマリナトスからも提唱されました。エーゲ海の地図を広げてみると、ミノア文明の中心地、クレタ島の近くにテラ島が浮かんでいます。このテラ島が大噴火を引き起こしたことは知られています。おそらく爆発前後の地震でクレタ内部の宮殿は破壊されたでしょうが、火山灰や津波のクレタへの影響はおそらく悲惨なものであったことでしょう。

 「クレタは回復不能なまでの大打撃を受けた。その後、次第に衰退し、その繁栄と力を失ったのだ」

 マリナトスはこう主張します。この説はその後も様々な形で継承されていきます。例えば、カーペンターは、クノッソスを侵略したのはギリシャ本土からの攻撃だが、爆発によって打撃を受けたクレタは、それを防げなかったのだ、と主張していますし、チャドウィックは侵略軍こそ想定しませんが、火山灰によりクレタ東部が不毛化し、津波がミノア文明の艦隊を破壊したと提唱しています。

 ミノア文明は本当に火山の噴火によって崩壊してしまったのでしょうか。テインター教授は、こうした説をいずれも否定します。例えば、アイルランドは確かにジャガイモ病で大打撃を受けましたが、それで絶滅はしていません。また、テラの爆発は19世紀後期に南太平洋で起きたクラカトアの大爆発とよく比較されますが、クラカト� ��の大爆発によって崩壊した文明はただのひとつもないではないか、と指摘します。

「私は地形学者ではないのだが、火山灰でクレタが不毛となったという議論は、北東アリゾナ州の火山灰の影響と比べ奇妙に思える。そこでは、有史以前のサンセット・クレーターの噴火が地元農業をかなり改善させているのである」

 さらに、年代についても突っ込みをいれています。

「現在では爆発は後期ミノア文明IA期末頃(紀元約1500年)にあったとされているのだが、クレタで広範な破壊が生じたのは、後期ミノア文明IE(紀元前約1450年)なのである。それ以前はテラの爆発を監視していなかったクレタ人たちも、それからは防災の準備をしたであろう。そして、それは、何よりも優先されたはずである」

 テインター教授は、恐竜絶滅の理由を説明するため古生物学者たちがシンプルなカタストロフィー論に魅了されるように、社会科学者たちも文明崩壊を理解するために破局論を持ち出すことは興味深い、と皮肉を言い、カタストロフィー論では崩壊を説明できないと判断します。

「このシナリオは明解で好まれてはいる。とはいえ、崩壊についての説明としては最も弱いもののひとつだ。根本的な問題は、複雑な社会が崩壊もせずにカタストロフィーに耐えていることだ。人間社会は、四六時中カタストロフィーに遭遇している。それは十分に想定可能なものであり、定期的な防災手段が講じられている。事故に遭遇しても崩壊もせずにある社会があまりにも多い。すべての社会が、あるカタストロフィーによって屈服したと考えることは疑わしい」

 テインター教授は、核だけは別だ。つまり、防ぎようがない核によって文明は滅びるかもしれないと留保をおきつつ、それ以外の災害であれば、たとえいくら想定外であっても、それ以降は必ず防災の準備をしたはずである、と考えます。そして、こう続けます。

「本来、災害を乗り越え、そして、災害から復旧する能力を持つのが複雑な社会であるはずである。ところが、問題とされるカタストロフィーは、どうしたわけかその規模を越えていることにならなければならない。この基本想定についてはめったに説明がされることがないし、仮にこの想定がもし正しいとしても、崩壊の要因は、カタストロフィーではなく社会になってしまうのだ」


 まさに、テインター教授の指摘のとおりです。どうやらミノア文明(クレタ島)は、火山噴火によって崩壊したようではなさそうです。カタストフィック崩壊論は、結局、ある社会が災害に対して、きちんと対応をするかどうかという防災論にゆきついてしまうのです(続)。



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