2010年12月26日のブログ|マイケルは愛のメッセンジャー
これはカレンがまだ20歳で拒食症になる前のもの。とても美しいです晩年(といっても33歳)の時の容姿とは全く違いますね・・・彼女はこの曲で2つのグラミー賞を受賞。
"We've Only Just Begun" is The Carpenters' signature song. Although it was recorded in early 1970, it is still much in demand as a wedding anthem.Written by the songwriting team of Roger Nichols (music) and Paul Williams (lyrics), the song originally debuted in a commercial for Crocker National Bank in California in 1970, with Williams providing the vocals. Williams has said they left out a direct reference to the bank in part to make it salable as a pop song, and also because they couldn't conceive a reasonable rhyme for "Crocker." It is ranked #405 on the Rolling Stone magazine's list of "the 500 Greatest Songs of All Time". The song was originally recorded by Smokey Roberds, a friend of Nichols, under the name Freddie Allen (his Christian names). Although fairly successful in California, it made no impact nationally, which Roberds attributed to promotion and distribution problems. Believing that the song had hit potential, Richard Carpenter selected the composition for the duo's third single and included it on the LP Close to You. Released in the late summer of 1970, the single featured his sister Karen's lead vocals and the overdubbed harmonies of both siblings. Following their hit "(They Long To Be) Close to You" onto the charts, "We've Only Just Begun" crested at #2 on the U.S. Billboard Hot 100, becoming the pair's second gold single and was considered by both Karen and Richard to be their signature song. According to The Billboard Book of Top 40 Hits (6th edition), on the U.S. Adult Contemporary singles chart, it was the duo's best-performing tune, lasting seven weeks at #1 (besting the six-week stay at the top of "Close To You"). The song helped them to win two Grammy Awards in 1971. One was for the Best New Artist (The Carpenters), and the other was for Best Contemporary Performance by a Duo, Group, or Chorus (Close to You). In 1998, the recording was inducted into the Grammy Hall of Fame for recordings of lasting quality or historical significance
ウィキペディアからの抜粋:(彼女は33歳で拒食症による薬物による衰弱で亡くなっています。)
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆1980年代初頭゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
1979年、リチャードはカンザス州のリハビリ施設で薬物依存症からの回復を試みる。その間にカレンはニューヨークに渡って、プロデューサーにフィル・ラモーンを迎えた初のソロ・アルバムの制作を決意する。彼女はこのアルバムのためにより大人向けでディスコ調の作品を選び、これまでのイメージを払拭しようと努めた。だが、1980年の初頭に完成したソロ作品に対し、リチャードやA&Mは難色を示した。カレンにとっては不幸なことに、このアルバムは発表しないものとする決定が下され、この作品の制作費として印税から50万ドル以上の負債を請求されたのである。この決定に怒りを覚えつつも、ある面では慣れぬ仕事から解放されたカレンは、依存症から立ち直った兄と新しいアルバムの制作にとりかかる。お蔵入りになった� �レンのソロ・アルバムは1996年10月に『遠い初恋』としてリリースされるまで未発表だったが、録音された楽曲のうち4つは1989年のカーペンターズのアルバム『愛の軌跡~ラヴラインズ』の中で陽の目を見た。その際に「イフ・アイ・ハド・ユー」はシングルとしてリリースされ、アダルト・コンテンポラリー・チャートで20位以内にランクインした。
カーペンターズは1980年に『Music』と題されたテレビの特番に出演し、エラ・フィッツジェラルドやジョン・デヴィッドソンをはじめとする著名なゲストと共演した。これはカレンがトム・バリスと結婚したのと同じ年に撮影されたもので、この時期のカレンは比較的健康な体重を取り戻していた。。
1981年6月16日にリリースされたカーペンターズのデュオとしての次なるLP『メイド・ イン・アメリカ』は、商業的には失敗に終わった。この作品はアメリカでは、カレンが亡くなる1983年初頭までは20万枚ほどしか売れていなかった。しかしながら、アルバムからシングル・カットされたロマンティックな「タッチ・ミー」はHot100で16位まで上昇し、全米ポップ・チャートにおける彼らの最後のトップ20ヒットシングルとなった。この曲はビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートでは彼らにとって15番目の首位記録作品でもある。
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カレンのトーマス・ジェイムズ・バリスとの結婚や、彼女が患っていた拒食症などの個人的な問題は、グループの復帰に暗い影を落とした。瞬く間に恋に落ちたあと、カレンは不動産業者のバリスとの結婚式をビバリーヒルズ・ホテルのクリスタル・ルームで盛大に行った。1980年の8月31日に挙げられたこのセレモニーの中で、カレンは翌年に「タッチ・ミー」のカップリングとしてリリースされる、リチャードとベティスが書き下ろした楽曲「ウエディング・ソング」を披露している[43]。だが、結婚してから1年ほどの間に、彼女の容姿は変わり果てていった。『メイド・イン・アメリカ』の販売促進用に制作されたビデオで窺 えるその姿は、もはや彼女が重病人であったことを裏付けるのに十分な証拠といえるものであった。カレンとバリスの結婚生活は惨憺たるものであり、彼らは1981年の終わりには別居する。1982年、カレンは障害の診療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピスト、スティーブン・レベンクロンを訪ね、この年の11月には仕事に復帰して離婚手続きを完了するためにカリフォルニアへ戻った。カレンの甲状腺は通常のものであったが、新陳代謝を加速するために甲状腺の薬を通常の10倍服用していることが分かった。これに加えて大量の下剤(日に90錠から100錠)を服用していたことが、彼女の心臓を弱める原因となった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇カレンの突然の死◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ニューヨークの病院での2ヶ月以上にわたる治療を経て、カレンは30ポンド(13.6キログラム)以上も体重を戻したが、急激な体重の増加は、長年の無理なダイエットですでに弱っていた彼女の心臓に、さらなる負担をかけてしまった。1983年の2月4日の朝、カレンはダウニーの両親の家で心肺停止状態に陥ってダウニー・コミュニティ病院に運ばれるが、それから20分後に死亡が確認された。彼女はその日、離婚届へ署名するつもりであったという。
検死によると、カレンの死因は神経性無食欲症に起因するエメチンの心毒性であった。解剖学的な結論としては、心臓麻痺が第1の原因で、拒食症は第2の原因であった。第3に挙げられるのが悪液質で、これは負担や衰弱としては非常に軽いもので、慢性的な疾患と関連した一般的な体� �衰えというべきものであった。エメチンの心毒性が死因であったことは、カレンが当時は簡単に入手できた薬である吐剤(誤って毒物を摂取してしまった人が即座に嘔吐できるようにするためのもの)を悪用していた可能性を示唆したが、明確な証拠はない。
彼女の告別式は1983年2月8日火曜日にダウニーの統一メソジスト教会で執り行われた。カレンは白い開いた棺にピンクのドレスを着せて横たえられ、およそ1,000人の会葬者が最後の別れを告げた。会葬者の中には、ドロシー・ハミル、オリビア・ニュートン=ジョン、ペトゥラ・クラーク、クリスティナ・フェラー、ディオンヌ・ワーウィックといった彼女の友人たちがいた。別居中であったカレンの夫も葬儀に出席し、結婚指輪を外して棺の中に入れた。
1983年10月12日、ハ リウッド名声の歩道のコダック・シアターから2、3ヤードほどのところにカーペンターズの星型プレートが飾られた。多くのファンと並び、リチャード、ハロルド、アグネス・カーペンターが除幕式に出席した。
カレンの死は拒食症だけでなく過食症に対してもメディアの注目を呼び寄せた。カレンの死によって有名人たちも自らの摂食障害を公表するようになったが、その中にはトレイシー・ゴールドやダイアナ妃といった人々がいた。医療センターや病院はこうした障害に悩む人々からの相談を受けることが多くなった。カレンの死が大きく報道されるまでは、一般大衆の間では拒食症や過食症についてあまり知られていなかったため、症状を正確に認識して対処することは困難だったのである。2003年12月、カレンと両親の遺骨が� ��リフォルニア州サイプレスのフォレスト・ローン記念公園から掘り起こされ、カリフォルニア州ウェストレイク・ビレッジのピアース・ブラザーズ・ヴァリー・オークス記念公園に改めて埋葬された。全文はこちら
ハリウッドレポーター食欲不振
1977年の大ヒット
デビューに至るまで
ナチスから逃れるためスイスを経てアメリカに亡命したドイツ系ユダヤ人のハワード・ジョエルを父として、宝石商を営んだイギリス系ユダヤ人のハイマン家の娘を母としてニューヨーク市ブロンクスに生まれ、ロングアイランドの新興住宅地に育つ。子供時代は、クラシックピアノを習っていた。14歳の頃に、エコーズという名のバンドに参加し、その後プロのミュージシャンとして活動を開始。故郷のロングアイランドを拠点に活躍していたハッスルズのメンバーとして活動した後、彼と共にグループ内で活動していたドラマーのジョン・スモールとのユニット、アッティラを結成して
2枚のアルバムを発表。しかし、アッティラは鳴かず飛ばずのままで結局解散してしまう。
当時ジョエルは鬱病に悩まされており、極度の神� ��衰弱から精神病院に入院している。
ビリー・ジョエルにも不遇と挫折の時代がありました。アッチラ(Attila)というバンドの不成功のあと、1970年後半に家具の光沢剤を飲んで自殺を図っています。後に彼は「漂白剤よりは味がマシと思った」と語っています。
こちらに著名人で自殺を図った人が沢山紹介しているサイトが・・・
初期
アーティ・リップという人物に才能を見出されて契約を交わし、彼のプロデュースによって制作された1971年のアルバム『コールド・スプリング・ハーバー』で、ビリー・ジョエルはソロ・デビューする。しかしながらこのアルバムは、所属レコード会社による勝手な判断で録音テープの再生速度を上げられてしまい全く別人のような歌声で発表された。不本意な内容の上ヒットにも至らず、人間不信から鬱病が進行し自宅に引き籠りがちになってしまう。発売後にジョエルは、後に妻となるマネージャーのエリザベス・ウェーバーと共にロサンゼルスに移住している。
ビル・マーティンという名前でクラブを中心にライヴ活動を行った彼は、その後コロムビア・レコードと契約を更新。そして、1973年にアルバム『ピアノ・� �ン』で再デビューを果たす。表題曲が全米トップ30のスマッシュ・ヒットとなったことによってこのアルバムはセールスを伸ばし、彼にとって初となるゴールド・ディスク認定作品となった。『ピアノ・マン』と同じくマイケル・スチュアートがプロデュースを手がけた1974年発表のサード・アルバム、『ストリートライフ・セレナーデ』もゴールド・ディスクに認定されている。
1975年には、4枚目のアルバム『ニューヨーク物語』を制作する。このアルバムは、当初シカゴのプロデューサーだったジェイムズ・ウィリアム・ガルシオがプロデューサーとして携わっていたが、最終的にジョエル1人によって仕上げられた。翌年にリリースされ、彼にとってキャリア中唯一のセルフ・プロデュース作品となったこのアルバムは、後にヒッ� �曲となる「さよならハリウッド」「ニューヨークの想い」などを収録しながらも、商業的には不振に終わっている。
『ストレンジャー』の成功
1977年に発表された5枚目のアルバム『ストレンジャー』は、彼を一躍スターダムへとのし上がる大きな成功を収めた。
ポール・サイモンのグラミー賞受賞作『時の流れを』などを手がけたフィル・ラモーンをプロデューサーに起用して制作されたこのアルバムは、全米2位まで上昇する大ヒットを記録。
アメリカでは、2003年に各フォーマット総合で1,000万枚以上も売り上げ、ダイアモンドディスクに認定された。
「ストレンジャー」は、日本の70年代のディスコブームで、統一振り付けでそろって踊られた。
曲冒頭の口笛が特徴的である。
出世作となった『ストレンジャー』にも収められていたのが、全米3位を記録した「素顔のままで」である。
この曲は、1978年度のグラミー賞で最優秀楽曲賞と最優秀レコ ード賞を受賞し、彼にとって30年以上のキャリアの中で最大級のヒット曲となっている。
翌年には、アルバム『ニューヨーク52番街』を発表。このアルバムで、彼は初の全米チャート1位を獲得しただけでなく、同年度のビルボードの年間アルバムチャートでも首位を記録した。グラミー賞の最優秀アルバム賞と最優秀ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞の二部門を受賞するなど、その内容も高く評価されたこのアルバムは、1982年に世界で初めてコンパクト・ディスクとして発売された音楽作品としても知られている。
2枚のアルバムの成功を受け、1978年初来日公演が実現、
翌年の来日公演では日本武道館2日間と日本で彼の人気が爆発した。
脳はどうですか?
1980年代前半
『ストレンジャー』『ニューヨーク52番街』の成功の後、1980年には『グラス・ハウス』が発表された。
これまでのジャズを基調とした洒脱な作風から路線変更し、よりソリッドなサウンドに徹したこのアルバムでジョエルは最優秀ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞する。
3年連続で同賞を受賞した彼は常連の候補者となり、
以後1983年の『イノセント・マン』まで連続してノミネートされている。
また、『グラス・ハウス』からは5曲がシングルカットされたが、そのうち「ロックンロールが最高さ」は、彼にとって初の全米シングルチャート1位記録曲となった。
1981年には、初のライヴ盤『ソングス・イン・ジ・アティック』をリリース。ブレイク前の初期の作品のライヴテイクを集めたこのアルバ ムは、アメリカと日本でトップ10ヒットとなり、ライヴ盤としては極めて大規模な成功を収めた。
『ストレンジャー』のヒット以降順調に活躍していたジョエルにとって、
1982年は数多くのトラブルに見舞われた年となった。
『ナイロン・カーテン』の制作を開始した4月にはオートバイ事故を起こし、左手首に重傷を負う。1か月の入院を要した彼はアルバムのレコーディングを一時休止せざるを得なくなった。
また、マネージャーとしてもジョエルを支え続けてきた妻のエリザベス・ウェーバーとの夫婦仲も拗れていた。
結局、ジョエルの財産の半分を慰謝料として受け取ることを条件に、
彼とウェーバーは1983年7月に離婚に至っている。
これらの私生活での様々なトラブルが影響してか、
1982年の9月にリリー� ��された『ナイロン・カーテン』は、
アメリカが当時抱えていた社会問題をテーマにした、極めてシリアスな作品となっている。
数々の災難が続いた彼だが、1982年に行われたツアー後のオフで滞在したサン・バルテルミ島で出会ったスーパーモデル、クリスティ・ブリンクリーと交際を始める。
彼女がプロモーション・ビデオにも出演して話題となった1983年のシングル「アップタウン・ガール」は、これまで彼にとって主要なマーケットではなかったイギリスで大ヒットし、初の全英チャート首位に輝いた。
この曲は、2001年にはウエストライフによってカヴァーされ、再びイギリスのヒットチャートの1位を記録している。
「アップタウン・ガール」が収められた1983年の『イノセント・マン』は、彼が10代の頃に慣れ� �しんだ1950年代から60年代にかけてのオールディーズを基盤とした楽曲を中心に構成された極めてポップな作品である。このアルバムからは収録曲の半分以上の6曲がシングルカットされ、すべて全米トップ40ヒットになっている。
『イノセント・マン』は、アメリカや「アップタウン・ガール」で人気に火がついたイギリス、日本などを中心にセールスを伸ばし、最終的に全世界で800万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。
1985年には初めてのベスト盤となる『ビリー・ザ・ベスト』をリリース。
彼の12年のソロ・アーティストとしての軌跡を総括するこの2枚組アルバムは、
アメリカで歴代5位の2,100万枚を売り上げたとされ、
AC/DCの『バック・イン・ブラック』とタイ記録である。
1980年代後半 - 1990年代前半
ジョエルとブリンクリーは1985年3月23日に結婚し、同年12月には娘のアレクサ・レイ・ジョエルが誕生した。アレクサのミドルネーム"レイ"は、彼自身の憧れの存在だったレイ・チャールズにあやかってつけたものだった。
1986年発表の「ベイビー・グランド」では、そのチャールズとのデュエットで大きな話題を呼んだ。
この曲が収録されたアルバム『ザ・ブリッジ』では、ジョエルはほかにもシンディ・ローパーやスティーヴ・ウィンウッドらと共演している。
『ザ・ブリッジ』を最後に、ジョエルは『ストレンジャー』以来ずっとプロデューサーを務めてきたフィル・ラモーンとのタッグを解消する。また、バックバンドのメンバー編成にも新しい顔ぶれを起用し、1987年には新たにコンサート・ツアーを行った。� �のツアーのハイライトとなったのが6回行われたソ連での公演で、述べ15万人もの観客を動員した。これらの公演を記録したビデオとライヴ・アルバムも発表された。
1988年にはディズニー映画『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に声優として出演。チャールズ・ディケンズの小説『オリヴァー・ツイスト』が原作のこの映画で、彼はサントラ盤にも楽曲を提供している。
長年に渡ってジョエルの作品を手がけたラモーンに代わり、ミック・ジョーンズをプロデューサーに起用した彼は、1989年にアルバム『ストーム・フロント』を発表する。このアルバムからシングルカットされた「ハートにファイア」は同年の年間チャートで10位以内に入る大きなヒットを記録し、ジョエルにとっては3曲目となるビルボードのシングルチャート1位獲得作品となった。また、『ストーム・フロント』も彼にとって『グラス・ハウス』以来となる首位を獲得している。
それから4年後の1993年には、ダニー・コーチマーがプロデュースを務めた『リヴァー・オヴ・ドリームズ』を発表し、前作に続く全米1位を記録。シングル・カットされたタイトル・ソングも英米共にトップ3ヒ ットとなる。また、このアルバム発表に伴い、1995年には8度目の来日公演を1月19日に大阪城ホールで行うも、この時阪神大震災に遭遇、この日の公演の収益金の全額を、同震災での被災者に対して寄付している。
この2人の経歴を見ると災難にあっているのはマイケルだけではないと解ります。
カレンは亡くなってしまいましたがビリージョエルは様々な壁を乗り越えてきた人だったんですね。
知らない面があったのは驚きました。。。
2人の経歴に出て来ます。クインシーも彼のことを話していたことがありますね。
フィル・ラモーン(Phil Ramone 1941年- )はバイオリニスト、作曲家、レコーディングエンジニア、そして数々の著名な業績がある音楽プロデューサーである。
この人のアーティストの相関図は凄いものがあります。
幼年期を南アフリカで過ごしたラモーンは3歳でバイオリンを始め、10歳のときにエリザベス2世の前で演奏するという神童として知られた。1940年代の終わりにはクラシック音楽のバイオリニストを目指してジュリアード音楽院に進んだ。クラスメートの一人にはジャズサクソフォーン・プレイヤーのフィル・ウッズがいた。
1959年にはレコーディングスタジオ「A&R」を立ち上げ、とりわけ革新的な技術を積極的に用いることでレコーディングエンジニア・音楽プロデューサーとしての評判を得る。
彼がプロデューサーとしてかかわったアーティストに は、ボノ、バート・バカラック、ローラ・ブラニガン、カレン・カーペンター(カーペンターズ)、レイ・チャールズ、シカゴ、ナタリー・コール、ボブ・ディラン、グロリア・エステファン、アレサ・フランクリン、ビリー・ジョエル、エルトン・ジョン、フィト・パエス、クインシー・ジョーンズ、B.B.キング、ジュリアン・レノン、マドンナ、ポール・マッカートニー、ジョージ・マイケル、シネイド・オコナー、ルチアーノ・パヴァロッティ、アンドレ・プレヴィン、カーリー・サイモン、ポール・サイモン、フランク・シナトラ、ロッド・スチュワート、ジェームス・テイラー、オリビア・ニュートン=ジョン、ライザ・ミネリ、バリー・マニロウ、クレイ・エイケン、ピーター・ポール&マリー、メリッサ・エリコ、アン・マレ� �など枚挙に暇がない。
マリリン・モンローがジョン・F・ケネディのために歌い(ケネディは「いつ死んでも悔いはない」と言ったという)ハッピーバースデートゥーユーの録音にもクレジットされている。
ラモーンがもたらした音楽の技術的な革命には、4トラックレコーダー、映画の光学式サラウンド音声、デジタル録音技術などがあり、A&Rスタジオでは初の一般販売用コンパクトディスクが製作された(大々的に販路に載った最初のCDアルバムは1978年発売のビリー・ジョエル『ニューヨーク52番街』)。また最初の商業的なDVDもラモーンの手によるもので、1997年のデイヴ・グルーシンによる『ウエストサイド物語』であった。
ニューヨーク州のファイブタウン・カレッジとバークリー音楽大学から名誉学位を授与されて� ��り、バークリーでは理事も務めている。
チャック・グラナータとの共著による書籍Making Records: The Scenes Behind The Musicが2007年10月9日に出版された。
グラミー賞にはこれまで33回ノミネートされており、14回受賞している。
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