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2012年4月30日月曜日
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2012年4月29日日曜日
犬の名前ランキング2011 / 犬の名前 総合ランキング / 犬種別部門 犬の名前ランキング
2011年10月20日
アニコム損害保険株式会社(東京都新宿区:代表取締役社長 小森伸昭)は、11月1日の「犬の日」に合わせ、ペット保険「どうぶつ健保」に新規契約した0歳の犬約11万2千頭を対象に「愛犬の名前調査」を実施し、「犬の名前ランキング2011」を発表します。
総合ランキングは、女の子で1位、男の子でも6位にランクインした「ココ」が、調査開始以来6年連続で1位を保っていた「チョコ」を破り、初の1位を獲得しました。
総合2位は、「マロン」が昨年の総合3位から上昇し、僅差で「チョコ」が続きました。
男女別の名前でも、昨年2位の「マロン」と「ココ」がそれぞれ1位を獲得し、男の子2位の「チョコ」、女の子2位の「モモ」ともに、調査開始以来、初めて1位を譲る結果となりました。また、男女ともに「モカ」が昨年のベスト10圏外からランクインを果たしました。
犬の名前ランキング2011
順位 | 名前 | 頭数 |
---|---|---|
1位(2) | ココ | 1,691 |
2位(3) | マロン | 1,323 |
3位(1) | チョコ | 1,304 |
4位(4) | モモ | 1,110 |
5位(5) | ココア | 941 |
6位(6) | ソラ | 898 |
7位(8) | モコ | 877 |
8位(9) | サクラ | 764 |
9位(10) | モカ | 760 |
10位(7) | ハナ | 717 |
()は前年順位
犬の名前ランキング2011
順位 | 名前 | 頭数 |
---|---|---|
1位(2) | マロン | 701 |
2位(1) | チョコ | 698 |
3位(4) | ソラ | 666 |
4位(3) | コタロウ | 610 |
5位(5) | レオ | 571 |
6位(7) | ココ | 485 |
7位(8) | レオン | 473 |
8位(6) | ココア | 392 |
9位(9) | クウ | 323 |
10位(11) | モカ | 299 |
()は前年順位
犬の名前ランキング2011
2012年4月27日金曜日
これはカレンがまだ20歳で拒食症になる前のもの。とても美しいです晩年(といっても33歳)の時の容姿とは全く違いますね・・・彼女はこの曲で2つのグラミー賞を受賞。
"We've Only Just Begun" is The Carpenters' signature song. Although it was recorded in early 1970, it is still much in demand as a wedding anthem.Written by the songwriting team of Roger Nichols (music) and Paul Williams (lyrics), the song originally debuted in a commercial for Crocker National Bank in California in 1970, with Williams providing the vocals. Williams has said they left out a direct reference to the bank in part to make it salable as a pop song, and also because they couldn't conceive a reasonable rhyme for "Crocker." It is ranked #405 on the Rolling Stone magazine's list of "the 500 Greatest Songs of All Time". The song was originally recorded by Smokey Roberds, a friend of Nichols, under the name Freddie Allen (his Christian names). Although fairly successful in California, it made no impact nationally, which Roberds attributed to promotion and distribution problems. Believing that the song had hit potential, Richard Carpenter selected the composition for the duo's third single and included it on the LP Close to You. Released in the late summer of 1970, the single featured his sister Karen's lead vocals and the overdubbed harmonies of both siblings. Following their hit "(They Long To Be) Close to You" onto the charts, "We've Only Just Begun" crested at #2 on the U.S. Billboard Hot 100, becoming the pair's second gold single and was considered by both Karen and Richard to be their signature song. According to The Billboard Book of Top 40 Hits (6th edition), on the U.S. Adult Contemporary singles chart, it was the duo's best-performing tune, lasting seven weeks at #1 (besting the six-week stay at the top of "Close To You"). The song helped them to win two Grammy Awards in 1971. One was for the Best New Artist (The Carpenters), and the other was for Best Contemporary Performance by a Duo, Group, or Chorus (Close to You). In 1998, the recording was inducted into the Grammy Hall of Fame for recordings of lasting quality or historical significance
ウィキペディアからの抜粋:(彼女は33歳で拒食症による薬物による衰弱で亡くなっています。)
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆1980年代初頭゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
1979年、リチャードはカンザス州のリハビリ施設で薬物依存症からの回復を試みる。その間にカレンはニューヨークに渡って、プロデューサーにフィル・ラモーンを迎えた初のソロ・アルバムの制作を決意する。彼女はこのアルバムのためにより大人向けでディスコ調の作品を選び、これまでのイメージを払拭しようと努めた。だが、1980年の初頭に完成したソロ作品に対し、リチャードやA&Mは難色を示した。カレンにとっては不幸なことに、このアルバムは発表しないものとする決定が下され、この作品の制作費として印税から50万ドル以上の負債を請求されたのである。この決定に怒りを覚えつつも、ある面では慣れぬ仕事から解放されたカレンは、依存症から立ち直った兄と新しいアルバムの制作にとりかかる。お蔵入りになった� �レンのソロ・アルバムは1996年10月に『遠い初恋』としてリリースされるまで未発表だったが、録音された楽曲のうち4つは1989年のカーペンターズのアルバム『愛の軌跡~ラヴラインズ』の中で陽の目を見た。その際に「イフ・アイ・ハド・ユー」はシングルとしてリリースされ、アダルト・コンテンポラリー・チャートで20位以内にランクインした。
カーペンターズは1980年に『Music』と題されたテレビの特番に出演し、エラ・フィッツジェラルドやジョン・デヴィッドソンをはじめとする著名なゲストと共演した。これはカレンがトム・バリスと結婚したのと同じ年に撮影されたもので、この時期のカレンは比較的健康な体重を取り戻していた。。
1981年6月16日にリリースされたカーペンターズのデュオとしての次なるLP『メイド・ イン・アメリカ』は、商業的には失敗に終わった。この作品はアメリカでは、カレンが亡くなる1983年初頭までは20万枚ほどしか売れていなかった。しかしながら、アルバムからシングル・カットされたロマンティックな「タッチ・ミー」はHot100で16位まで上昇し、全米ポップ・チャートにおける彼らの最後のトップ20ヒットシングルとなった。この曲はビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートでは彼らにとって15番目の首位記録作品でもある。
!doctype>2012年4月26日木曜日
1. 冷凍保存・電子レンジによる解凍、調理はしない
冷凍と電子レンジ。この2つを頻繁に使っている家庭には、明らかにアトピー性皮膚炎など身体の弱い子が多いです。「ルネサンスごはん」には豊富な栄養素と塩が含まれているので、冷蔵でも4~5日は保存できます。ご飯などは必要量を炊飯器の「炊飯」スイッチで温め直し、味噌汁や煮物は小鍋に入れてガスの火で温めればよいだけです。私はもう電子レンジは使っていません。些細な便利さのために、とても大事なものを捨て続けてきたことに、私達はもっと気づかなければいけないのです。
!doctype>2012年4月24日火曜日
『ザ・コーヴ』がドキュメンタリーと称しながらも、実際はストーリー設定に都合のいい映像を寄せ集めた編集の産物のパズル作品だという事は日本公開当時から指摘されていたが、事実関係と照らし合わせて注意深く見れば巧妙な編集で話を作り替えている痕跡は随所に見つかる。
映画自体は何となく時系列順に配列されているような印象を与える構成になっているが、実際殆どのシーンの撮影時期は不明であり、はっきり示されている場面はニュースで報じられたり公式記録があるなどして動かしようがない以下の3カ所のみである (1と3は回想シーン的扱い):[>>1]
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一見連続した場面のように演出されていても、登場人物の服装が冬服から突然夏服になったりなど明らかに別な時期に撮影された映像が繋ぎ合わされている個所もあるなど、撮影時期も場所も不明な映像の連続であるこの映画はただのMADムービーであり、ドキュメンタリーと呼べる代物ではない。
*注意:本エントリーは映像検証のためにイルカ屠殺の流血画像を掲載しているため、予めご了承下さい。
時系列を無視した編集とCG合成映像による後付けストーリー
この映画の全体のストーリー演出は以下の非常に単細胞な勧善懲悪ものである:
捕鯨国の日本や米国のイルカショー産業の陰謀で、IWCや海洋哺乳類学会はオバリー氏が太地町のイルカ漁の話題を議題に持ち込む事を嫌って徹底的に排除。
それまでのシーシェパードなどによる太地町での抗議活動は、警察国家日本の権力に弾圧され誰もその現場を見る事すらも出来ず、シホヨス監督が映画を作る事を買って出て、各分野のエキスパートから成るドリームチームを率いてイルカ漁映像を盗撮、IWCと日本社会にそれを暴く事で復讐をする。
しかし事実関係と撮影時期を調べて行くと、映画の構成が時系列を無視した再構成による後付けのストーリーである事が分る。
映画での場面の順番とその主張は以下。
というように、オバリー氏がIWCから排除されたために事実を暴いてその復讐をしたというストーリー自体が嘘であり、イルカ漁の盗撮映像を見せたというシーンの時点でその映像は存在していなかったという、とにかくこの映画は嘘の連続である。
それでは以下、上記でリストした各場面の説明をする。
オバリー氏が乱入したのは2006年セントキッツのIWC総会
映画の最初では、2006年6月のIWC総会の行なわれたセントキッツのホテルでオバリー氏が警察から退去命令をされる場面で「オバリーはIWCから出入り禁止」と説明し、映画のラストシーンでIWC総会の会場にディスプレイを持って乱入をしているが、時系列的には総会初日の6月16日の乱入の方が先であり[>>7]、この映画の核となるストーリー自体が編集による後付けである事の代表例のシーンである。
[ホテルの部屋] オバリー:IWCは馬鹿どもの乗った船として歴史に残るだろう。どう見てもここに民主主義はなく、彼等はやりたい放題だ。 オバリーはIWCから無期限で出入り禁止にされている [ドアがノックされる]警察:オバリーさん、私がいる事は分っている筈だ。 オバリー:はい? 警察:ホテルを立ち去って下さい。 オバリー:朝まで待つ事は出来ないのか? 警察:カメラを切るように丁寧にお願いした筈だ。 マイケル・イリフ (タスマニア大学南極海南大洋研究所) Ric at IWC 2006, St. Kitts, West Indies O'Barry:The IWC will go down in history as a ship of fools. There's no... There's no democracy here by any stretch of the imagination. They do whatever the hell they want to do. Ric has been banned permanently from attending the IWC. Manager Mr. O'Barry, you know I'm here. O'Barry: Yeah? Manager:I have to ask you to leave the hotel. O'Barry: You could have waited till morning, but... Manager:Sir, I asked you very nicely to turn off your camera.
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これに先駆けるシーンでは、サンディエゴの海洋哺乳類会議でスポンサーのシーワールドの陰謀でオバリー氏のスピーチがキャンセルされたとか[>>8]、ジェーン・ティプソン殺害事件を例に挙げ[>>9]、「ドル箱産業のイルカショービジネスのイルカの供給源である太地のイルカ漁の問題」を持ち込むオバリー氏はイルカショービジネス界から危険人物視され、イルカ漁を黙認しているIWCから日本の陰謀でオバリー氏が排除されたかのような印象を与える演出がされている。
勿論『ザ・コーヴの調査』でも指摘されていたように、米国は日本からイルカを輸入しておらず、太地のイルカ漁と米国のイルカショーには何の因果関係もない。
そして真実を隠しドル箱産業と癒着したIWCの不正を暴くために、オバリー氏が太地で盗撮したイルカ漁を映したディスプレイを持ってIWC総会に「出入り禁止」を破って乱入し復讐を果たすというストーリーが演出されているが、これは順番が逆であり因果関係が全く逆転している。
ディスプレイの映像はCG合成
IWC乱入のシーンでオバリー氏のディスプレイに映っている映像は、『ザ・コーヴ』に登場するイルカ漁の映像と大半が同一であり、時系列的にあり得ない映像がディスプレイに映っているためこれは明らかにCG合成である。
ディスプレイには元々は何が映っていたのか?
2006年のIWC総会にオバリー氏が乱入した当時にネットにアップされた、この時のオバリー氏の写真は少数だがネット上で見付ける事が出来る。
オバリー氏はディスプレイ抗議を2回行なっている。
1回目は6月16日にマリオットホテルで行なわれた開会式に乱入し、2回目は恐らくその翌日、マリオットホテルのロビーの外で待機し、会議室から出て来た日本代表団に動画を見せて警備員に連れ出されている。[>>10]
2回のプロテストの結果、セントキッツの警察からホテル退去命令が出されたという訳だ。
ディスプレイに映っていたのは過去の富戸のイルカ漁の動画
シーシェパードを含む、このプロテストを伝えるウェブサイトでは、オバリー氏のディスプレーに映っている映像を太地のイルカ屠殺でオバリー氏自身の撮影だと説明しているが[>>10-11]、実際のところこのうち2つは静岡県富戸で撮影されたイルカ漁の映像である事が確認出来る。
しかし富戸では2004年を最後にイルカ漁は行なわれておらず、オバリー氏はその時点で既に行なわれていなかった過去の富戸の動画を太地と偽ってプロテストを行なったという訳だ。
シーシェパード編集のこの富戸のイルカ漁の動画には、日本のイルカ保護団体『エルザ自然保護の会』が発行しているDVD「日本のイルカ猟」のウェブ上の抜粋動画 と同一シーンが複数個所あるため、この動画は1999年10月に同会によって富戸で撮影された動画と見られる。
シホヨス監督がオバリー氏と知り合ったのは2005年で、ザ・コーヴのプロジェクトを始めたのが2006年だが、そもそもオバリー氏は自らイルカ漁のドキュメンタリーを製作しており[>>12]、この2006年6月の時点でこのプロテストが『ザ・コーヴ』の撮影のために行なわれたものかどうかは不明。
シーシェパードとサーファーグループの活動がきっかけでシホヨスが協力を買って出たという嘘
!doctype>2012年4月23日月曜日
当月は十三代目片岡仁左衛門十三回忌追善狂言を上演するとあって、正面をはいってすぐの左手には、お写真が飾られていた。
二階吹き抜けロビィには、舞台写真がたくさん展示されている。我當さんも、十五代目仁左衛門さんも、どちらもよく似てらっしゃる。
わたしは、残念ながら十三代目さんの舞台を拝見したことがない。
しかし、歌舞伎の芸は、父親から子供たちへと確かに伝えられていることが感じられる。
素晴らしいことだ。
十三世片岡仁左衛門十三回忌追善狂言
一、「近頃河原の達引(ちかごろかわらのたてひき)」
四條河原の場/堀川与次郎内の場
井筒屋伝兵衛と遊女お俊の心中もの。心中そのものではなく、心中に向かうお俊を思いやる母と兄の家族愛が描かれている。
2012年4月21日土曜日
Fatal error: Uncaught exception 'Zend_Gdata_App_HttpException' with message 'Expected response code 200, got 403 Private video' in /home/accounts_a/atomix7/public_html/Zend/Gdata/App.php:700 Stack trace: #0 /home/accounts_a/atomix7/public_html/Zend/Gdata.php(221): Zend_Gdata_App->performHttpRequest('GET', 'http://gdata.yo...', Array, NULL, NULL, NULL) #1 /home/accounts_a/atomix7/public_html/Zend/Gdata/App.php(861): Zend_Gdata->performHttpRequest('GET', 'http://gdata.yo...
!doctype>2012年4月20日金曜日
「ライトスタッフ」(The Right Stuff 、1983年、米、193分)
監督・脚本:フィリップ・カウフマン、原作:トム・ウルフ、音楽:ビル・コンティ
サム・シェパード(チャック・イエーガー)、スコット・グレン(アラン・シェパード)、フレッド・ウォード(ガス・グリソム)、エド・ハリス(ジョン・グレン)、デニス・クエイド(ゴードン・クーパー)、バーバラ・ハーシー(グレニス・イエーガー)
久しぶりに見る「「ライトスタッフ」だが、これはBS-2で最近放送されたもの。日本で流通しているのは160分だが、これは193分と随分長い。オリジナル版というものらしく米国では最初からこれだったようで、よく後から長尺で出てくるディレクターズ・カットというものではないようだ。
どこが違うのか、直接比べたわけではないので、よくわからないが、特に長いとは感じず、退屈せずにみることが出来た。
これは、米国のトップに位するパイロット達が、音速を超え、ソ連との競争の中で宇宙飛行士になっていく過程を描いたもので、ほぼ実話に基づいている。
アメリカ映画が、世界に提供したもっとも優れたものの一つだろう。
!doctype>2012年4月18日水曜日
- EQUINOX, PART II
- ●Fissures are opening, all decks! [Kim]
【吹替】全デッキで空間亀裂!
●Give me tactical control! Good guess. I used a deflector pulse to reinforce the shields. It won't hold for long. [Janeway]
【吹替】いい手を思いついた。やった。ディフレクター・パルスでシールドを補強したの。でも長くはもたない。[はぁ?]
【直訳】戦術コントロールをこっちに。当り!ディフレクター・パルスを防御スクリーンの強化に使ったのよ。でも長くはもたない。
【所感】えーと、"シールド"で減点イチ。
●Bridge to Sick Bay. We have a medical emergency. Doctor, respond. [Paris]
【吹替】ブリッジから医療室。緊急事態発生。ドクター、いないのか。
【直訳】ブリッジから医療室。緊急事態発生。ドクター、応答せよ。
●The Equinox? [Janeway]
【吹替】イクワノックスは?
●They've gone to warp. [Kim]
【吹替】ワープで消えました。
●Any sign of nucleogenic particles? [Janeway]
【吹替】核物質の粒子反応は?
●No. [Kim]
【吹替】ありません。
●Then they haven't engaged their enhanced warp drive yet. Keep looking for... [Janeway]
【吹替】まだワープドライブを強化してないってことね。探して。
【直訳】強化ワープエンジンはまだ起動してないわね。探索を続けて。
【所感】ワープエンジンの強化自体はは終わってるっての。単なる誤訳。
●Captain, I found the Doctor's mobile emitter on Deck 9. You might want to take it to Sick Bay. [Neelix]
【吹替】艦長、第9デッキでドクターのモバイルエミッターを見つけました。きっとお探しだろうと。[はぁ?]
【直訳】艦長、第9デッキでドクターのモバイルエミッターを見つけました。医療室にお持ちにならないといけないかと。
【所感】医療室でドクターが必要という文脈だから、また無意味に端折った上に少々原意を外していると思う。
●Any sign of the Doc? [Kim]
【吹替】ドクターはいましたか?
●I've got him right here. [Janeway]
【吹替】今呼ぶわ。[はぁ?]
【直訳】ここに連れてきたところよ。
【所感】ほれ見ろ。これはニーリックスの「医療室に〜」って台詞から繋がってるだろ。
●You know, once we get our enhanced warp drive back on line, we'll be on our way home. But it'll still take months to get there. You can spend that time in the brig, or... you can become part of this crew. I'd prefer the latter. [Ransom]
【吹替】我々はワープドライブの強化が完了次第、すぐに地球への帰路につく。それでも到着は数ヶ月先だ。その間拘束室で過ごすか、我々のクルーと して過ごすか。どちらがいい?
【直訳】知ってのとおり、強化ワープエンジンの修理が完了次第、地球への帰路につく。それでも到着までは数ヶ月かかる。その間拘束室で過ご すか、ここのクルーになるか。私は後者がいいと思うが。
【所感】だから強化は既に終わってて、それの修理をやってただけなんだっつの。ハナシを捻じ曲げるな。
●I'd prefer the brig. [Seven of Nine]
【吹替】当然拘束室だ。[はぁ?]
【直訳】私は拘束室がいい。
【所感】ランサムの"I'd prefer〜"を引っ張ってるんだから、訳出したい。
●You know, Janeway's not the only captain who can help you explore your humanity. [Ransom]
【吹替】人類の探求に手を貸すのなら、何もジェインウェイ艦長だけではない。
【直訳】自身の人間性探求の助力になる艦長は、ジェインウェイだけとは限らない。
【所感】訳は言わずもがなだが、それ以前に日本語として破綻している。サイテー。
●Warp drive ready. [a Bridge officer]
【吹替】準備完了。
●Engage. What happened? [Ransom]
【吹替】発進。どうした?
●Power relays are off-line. They've been encoded. [marla]
【吹替】パワーリレー停止。暗号化されています。
【直訳】パワーリレーが動きません。暗号化されています。
●It's not exactly Shakespeare, but it gets the point across. [Janeway]
【吹替】シェイクスピアとはいかないけど、いい台本ね。
●A small olive branch is still an olive branch. [Chakotay]
【吹替】友好のメッセージに変わりありません。
【直訳】オリーブの小枝は、どこでも同じですよ。
【所感】"A small olive branch"ってのは、聖書由来の平和・和解の象徴なんやね。訳出して欲しかったが... 原意としても「友好のメッセージ」って意味以上のものはないと言えるか。
●Want your First Officer's advice? [Chakotay]
【吹替】一言よろしいですか。[はぁ?]
【所感】「副長として」が抜けている。
●Allow me. Our deflector's losing power and when it fails, we'll be defenseless. It's Voyager we should be worrying about, not the Equinox. [Janeway]
【吹替】わかってる。ディフレクターはパワーを失いつつあります。今はイクワノックスでなくヴォイジャーのことを心配すべきです。
【直訳】私が言う。ディフレクターがパワーを喪失しつつあり、もし動作不能となれば我々は無防備となる。ヴォイジャーこそ心配すべき、イクワノックスでなく。
●You'd make a great First Officer. It's advice worth taking. [Chakotay]
【吹替】いい副長になれますよ。価値のある忠告です。
【所感】この翻訳は問題ないのだが、前段の「副長の意見が必要では?」の部分を訳出していないために、効果が半減している。
●We also found a few deuterium deposits. [Lessing]
【吹替】デュートリアム鉱山も発見しました。[はぁ?]
【直訳】重水素が堆積している層も若干みられます。
【所感】ああ... もはや「デュートリアム」は架空物質の域に入ってしまうのか... しかも架空物質としても「〜イウム」という語尾にすらしようとしないとは(翻訳概論参照) sigh...
●Take an away team, Noah, and see if you can localize the ore. [Ransom]
【吹替】ノアは上陸して、デュートリアムの位置を特定してくれ。
【直訳】ノア、上陸班を指揮して、その位置が特定できるかどうかやってみてくれ。
【余談】"Noah"か... これがファミリーネームなら、ファーストネームは"Bright"だったろうに...と、あのヒトの声で話すランサムをみて思った... って意味ないけど(^^)
●Captain's Log, supplemental. Our warp drive's back on line, but repeated sensor sweeps have failed to locate the Equinox. [Janeway]
【吹替】艦長日誌、補足。ワープドライブは復活した。しかしイクワノックスの行方は依然としてつかめなかった。[はぁ?]
【所感】「艦長日誌」に減点イチ。
●At Epsilon IV, he ran into a Klingon bird-of-prey. Played a game of cat and mouse for three days in a nebula before the Klingons finally gave up. [Janeway]
【吹替】イプシロン・フォーで、クリンゴンのバードオブプレイに遭遇したときは、敵が音(ね)を上げるまで追いつ追われつを続けた。[はぁ?]
【直訳】イプシロン4号星で、彼はクリンゴンのバードオブプレイと遭遇したの。クリンゴン人たちがあきらめるまで、星雲内を三日も追いつ追われつを繰り広げた。
【所感】わかってやってんのか?
【余談】"a game of cat and mouse"って面白い表現だな。
●Two years later, he eluded a Romulan warbird by taking his vessel into the atmosphere of a gas giant. [Janeway]
【吹替】その2年後には、艦をガス雲に入り込ませることで巧みにロミュラン・ウォーバードを躱してる。
【所感】「ガス雲」じゃなくて、「ガス巨星の大気」といってますナ。
●I'm reading a vein of ore. Azimuth 117... 30 meters. It could run pretty deep. [Lessing]
【吹替】鉱脈を探知。方位171、地下30m。かなり深いな。[はぁ?]
【所感】one seventeenとハッキリ言ってるのに、なんで117?seventyと間違えても170だし... ワケがわからん。
●Direct Hit. Minor Damage. [Glimmer]
【吹替】マイナーダメージです。[はぁ?]
【直訳】直撃ですが、損傷軽微。
【所感】まさに、ハァ?って感じなんやけど...
●Computer, open a comb-link to the Equinox. Workstation 33-Beta. [Torres]
【吹替】コンピューター、イクワノックスへの通信リンクを繋いで。ワークステーション32のベータ。[はぁ?]
【所感】"33-Beta"といってますナ、原語では。
●We're crossing the upper thermosphere. [Paris]
【吹替】現在、熱圏に突入しました。
【余談】普通に聞いてると「熱源」って聞こえません?なんのこっちゃと思って辞書を引くと、『熱圏 (大気圏上層部で,非常に高温)』 だそうです。そう思って聞くと、そう言ってるかもなぁって...
●Back for round two, BLT? [max]
【吹替】第2ラウンド突入かい?[はぁ?]
【所感】"BLT"を訳出しない意味がわからん。
●I want Ransom's tactical status. I want it now, Mr. Lessing. [Janeway]
【吹替】ランサムの戦術を教えて。今すぐによ、ミスター・レッシング。
●Or what? You'll hit me? [Lessing]
【吹替】断れば?殴りますか?
●No, Crewman. I'll drop the shields around this room, and let your little friends come pay you a visit. [Janeway]
【吹替】いいえ。この貨物室のシールドを落とす。直ぐにお友達が訪ねてくるでしょうね。
●That would be murder. [Lessing]
【吹替】人殺し同然だ。
●You could also call it "poetic justice." [Janeway]
【吹替】この場合、「因果応報」ともいうんじゃない?
【余談】"poetic justice"、詞的正義、勧善懲悪、因果応報... 面白い表現だ。
●Open a channel. [Ransom]
【吹替】回線を繋げ。
●Change of tactics? [Burke]
【吹替】作戦変更か?
●You might say that. It's time we found another way home. [Ransom]
【吹替】そうも言えるな。地球へは別の方法で帰る。
●Another way? [Burke]
【吹替】別の?
●We're going to cooperate with Janeway, Max, if she's willing. [Ransam]
【吹替】ジェインウェイに協力する。マックス、彼女が許せばな。[はぁ?]
【直訳】ジェインウェイに協力するんだよ、マックス。彼女が許せばな。
【所感】ほんのわずかのことだが、日本語として不自然。
●Rudy, with all due respect, have you lost your mind? [Burke]
【吹替】失礼ですが、正気を失ったんですか?[はぁ?]
【直訳】ルディ、お言葉を返すようですが... 気でもふれたのか?
【所感】前に「作戦変更か?」とタメ口で言ったのなら、ここでもそうすべき。
●Just the opposite. [Ransom]
【吹替】その反対だ。
【直訳】逆に、今正気に戻ったのさ。
【所感】これこそもう少し説明してもよかった気が(減点てほどじゃないけど)。
●I'm taking command. Anyone who isn't with me, speak up now. Take him to the brig. [Burke]
【吹替】私が指揮をとる。異存のあるものはいるか。拘束室へ。
●I'm sorry. [Gilmore]
【吹替】すみません。
●Open a secure channel to their Sick Bay. Stand by weapons. [Burke]
【吹替】医療室へ回線を繋いでくれ。武器はスタンバイ。
【所感】"向こう(ヴォイジャー)の"医療室と言ってるのを訳出していない。当初、「今さらイクワノックス内のセブンに何か用でもあるのか?」と思ったら、 ヴォイジャーの方だった。これは... そういうミスリード(ちょっとしたサプライズ(?))を喚起したというコトでは端折ってよかった... のかな?
●This isn't the brig. [Ransom]
【吹替】ここは機関室だ。[はぁ?]
【直訳】ここは拘束室じゃない。
【所感】うむむ...
2012年4月16日月曜日
2012.4.14
マヤの崩壊・下
人口が1%へ激減した大崩壊
古典期はマヤの黄金時代だった。旧世界でもごくわずかの民族しか到達できない知的・芸術的な高みに達していた(1)。古典期の半ばには中部を中心にティカル、カラクムル、コパン、ナランホ、パレンケ、あるいは、ヤシュチランといった50~70もの王国が林立し(4,6)、中でも抜きんでていたのが、ティカル、パレンケ、コパンだった(4)。とりわけ、紀元前一世紀に台頭したティカルは、西暦500年頃には2500㎢の領土と36万人を支配する都市だった。マヤの規模からすれば、これは驚くべきほどの大帝国だった(3)。ティカル遺跡(写真上)は最も研究が進んでいるが、人口密度が最も高い中央部の16㎢では、古典期後期のピークの人口は約1万人で、湿地に囲まれた東西と砦で囲まれた南北の周囲� ��には、さらに3万9000人が居住し、全人口は4万9000人となっていた。この数値は、古代シュメール人の都市の約5万人にほぼ匹敵する(6)。ティカルには、15万トン程の70m高さの神殿ピラミッドがあり、様々な構造物が3000もあった(1)。そして、ティカルの人口の61~74%は焼畑農業以外の手段で支えられていた(6)。
だが、マヤの支配者の石碑は810年には12しか作られず、830年にはこれが三つとなり(6)、それ以降は建てられなくなる。ティカルでは800年に記念碑が作られなくなり、830年には新たな建物も建てられず、碑文も消える(1)。コパン、キリグア、ピエドラス・ネグラス、ボナンパク、パレンケも800年頃に崩壊する(6)。セイバルでは、830年以降も記念碑が創られたが889年には没落した(1)。この崩壊に伴い、人口も大きく減少した。西暦800年には800~1000万人が暮らし、自然許容力からすれば、信じがたいほどの人口密度になっていた。アリゾナ大学のパトリック・カルバートは200人/㎢まで増加していたとし(3)、産業化前の世界では最も人口密度が高い地域のひとつとなっていたと述べている。そ� �が、ティカルでは崩壊によって、中心部の人口が90%以上も減少し、1000~2000人が残っただけとなってしまう。ティカルを支えてきた地域もこれに応じて人口が減少した。R・E・W・アダムズは、75年で300万人が45万人へと減少したとする一方、パトリック・カルバートは、100年で100万人が失われたとしているが(6)、いずれにせよ、古典期の最盛期には300~1400万人あったとされる中央ペテン地域が、スペイン人到来時にはわずか3万人しかいなかった。人口の99%以上が失われたのだ(2)。これを崩壊といわずしてなんといおう。ジャングル内に放棄された神殿や宮殿。マヤは崩壊した文明の中でも最も有名なひとつとなっているのはそのためだ(6)。いったい何が、これだけの大崩壊を引き起こしたのだろうか。
以下のように様々な研究者が様々な説を立てている。
侵略崩壊説
ハーバード大学のジェレミー・サブロフとゴードン・ウィリー教授は、メキシコ湾岸から優れた武器を持つ侵略者に襲れたとの説を提唱した(1)。セイバル遺跡とアルタル・デ・サクリフィシオス遺跡には、9世紀や10世紀の陶器、建設、彫刻に急速な変化が見られる(1,6)。事実、セイバルの建築の繁栄期は、芸術様式が変化した時期と一致し、これが軍事的な占領という推論に結びついている。以前は、こうした侵略が崩壊の引き金となったと考えらたこともあった。だが、パトリック・カルバートは、こうした侵略は、崩壊の原因ではなく結果であって、ただ権力が抜けた空間を利用するために周囲の人々が移動しただけだと述べている。アルタル・デ・サクリフィシオスの住民の骨格の分析からは遺伝学的に別の民 族が侵入した証拠がない(6)。
病害虫説と土壌劣化説
ブリューベーカーは、東部カリブ海からマヤ低地にハリケーンでもたらされたトウモロコシ・モザイク病ウィルスが凶作を引き起こしたと提唱している(6)。ペンシルヴェニア大学のロバート・シェアラー教授も、トウモロコシのモザイク病ウィルスが全滅させたと述べている(1)。
C・W・クックは、1931年に、マヤの崩壊が土壌侵食と土地不足によって引き起こされたと提案した。1962年に低地地帯の幅広いエコロジー的な研究を行なったサンダースもほぼ同じ結論を下し、焼畑農業による土壌劣化が、サバンナの形成につながったと主張している。その後、サンダースは、各都市間の政治的な対立も資源集約化につながった要因だとしている(6)。マイケル・コーも乾燥した斜面の段丘くらいしかまともな農地がなくなったと環境限界説を提唱している(1)。
これと関連するのが、マヤ人たちの健康状態の悪化だ。1965年にゴードン・ウィリーらは、バルトン・ラミエの遺骨が年代を経るごとに脆弱となっていることから、食料供給の危機が古典期後期には極度になったと述べた。
ティカル・プロジェクトの研究によれば、墓を持つステータスが高い死者と墓を持たない庶民とで西暦1世紀頃には、身長差が広がり、幼少期から栄養的に恵まれていたエリートの身長が平均7cm高くなっている。ところが、古典期後期には、エリートも庶民もストレスの影響を受け、男性の身長は、いずれも著しく低下している。また、アルタル・デ・サクリフィシオス遺跡からも、先古典期から栄養失調や高い寄生虫罹病が発生していることを示し、貧血も高く、子どもの成長が中断し、男性の身長が先古典期と古典期にかけ小さくなり、平均寿命も古典期後期に突然に低下し、ビタミンC欠乏症や壊血病がかなりの頻度で発生していたことがわかっている。コパン遺跡でウィリアム・サンダースによる最近の研究も、農村地帯で伝染 病や栄養疾患が蔓延し、都市はさらに深刻で、農村住民よりもかなり若年で死んでいた。都市住民の平均死亡年齢は古典期後期にさらに低くなり、下層階級の人々は不健康で、年上の子どもやティーンエイジャーも多くの異常な死因を経験していたという(6)。だが、本当にマヤの健康が悪化していたのかどうかはまだ疑問が残る。1996年のテキサス大学人類学部のローリー・ライト博士と西オンタリオ大学人類学部のクリスティン・ホワイト博士が、調べたところ、とりたてて健康状態の悪化は見られないとしている(1)。
旱魃説
ジャレド・ダイヤモンドが提唱するのは、環境破壊と旱魃説だ。湖底の花粉の研究によって、マヤ地域が過去三度大きな旱魃に襲われたことは前回述べた。だが、ベネズエラ沖のカリアコ海盆から採取された深海コアから、湖底以上に旱魃の状態が明らかになってきた。ジェラルド・ハウグらは、760年、810年、860年、910年に四度の旱魃があったことを明らかにした(3)。760年頃に2年間の旱魃があり、810~820年にはさらに乾燥し、860年頃には3年、910年頃には6年の乾期があったのだ(2)。これを元に、考古学者リチャードソン・ベネディクト・ギルは、810年に始まった旱魃がパレンケやヤシュチランを崩壊させ、860年の旱魃がカラコルとコパンを崩壊させ、890~910年の旱魃がティカル、ワシャクトゥン等を崩壊させたと述� �た。まず崩壊したのは、地下水が手に入りにくい中南部で、セノーテがある北部はこれ以降も生きのびたというのだ(2,3)。
旱魃説は説得力がある。マヤでは、西暦534~593年にかけ、記念碑数や遺跡数が激減する時期があり、ハイアタスと命名されているが(6)、このティカル等の都市が衰退した時期とも重なり、600年頃にやはり旱魃があるのだ。そして、旱魃は208年の周期で再発しているが、紀元前2170年には世界初のメソポタミアのアッカド帝国が崩壊し、600年にはペルー沿岸のモチカ第4期文明が崩壊し、1100年頃にはアンデスでティワナク文明が崩壊しており、他の先史文明の崩壊とも重なる(2)。
マヤの都市の多くは、窪地の底部を漆喰で塗り固め、ため池と貯水槽を作って乾期に備えていた。ティカルには1000人が18カ月分使うだけの貯水量があった(2)。ティカルの遺跡は今は石がむき出しだが、当時は漆喰で覆われていた。一滴の水も逃さぬように、建造物の内部には漆喰で固められた水路が張り巡らされていた。すなわち、ティカルがマヤ文明の中心であり続けたのは、雨季の雨水をコントロールし農地に水を提供する高度な水管理技術を作り上げていたことが大きかったのだ。だが、神殿の建設や水路の建設に必要な大量の漆喰を作るには大量の薪も必要で、これも熱帯雨林を破壊する一因となった。雨が減少したことが、最後に息を止めることにつながったと月尾嘉男は、2007年1月2日に放映されたパナソニック・ スペシャル地球新世紀、「水と土の循環」で指摘している(5)。
食料不足が戦争社会を産んだ
ジャレド・ダイヤモンドは、環境の劣化に加え、こうも指摘している。
「古典期の崩壊が近づくにつれ、戦争の激しさと頻度は増していった(略)。しだいに減少する資源をめぐって大勢の人たちの戦闘行為が増加した。王と貴族たちの関心は短期的な問題に注がれていた。私腹を肥やし、戦争を行い、石碑を建て、マヤの王たちは現実の深刻な脅威を前にしながら、なんら能動的な打開策を講じなかった」(2)
だが、ダイヤモンドの説からは、なぜ、マヤの王たちが戦争に従事し、脅威を前に対応策を講じなかったのかがいっこうに見えてこない。マヤ人の王たちは、現代人よりも愚かだったのだろうか。だが、ジョセフ・ティンターの解説を読めば、なぜマヤ人たちが戦争を止められなかったのかがよく見えてくる。ティンターは、マヤの人口増加が戦争の引き金になったと指摘する。
ベカン遺跡(写真右)を取り囲み堀や防壁が大きく強化されたのは、西暦150~300年にかけてであり、マヤ文明を特徴づける戦争は、先古典期、あるいは、原古典期から始まっている。そして、先古典期後期には、マヤ人たちは、人口増加と資源ベースの緊迫という課題に直面することとなっていた。人口が増加し、食料の生産能力に余裕がなくなれば、生産性の変動の影響が大きくなる。マヤの生産性の変動は、アサナジ族のような乾燥地域ほどは深刻なものではなかったが、マヤの人口密度は現在のジャワや中国の一部に近いほどの高さに達していたために深刻なものがあった。先古典期や古典期に集約農法が発展したため、気候、病害虫、養分損失に敏感で、とりわけ、中央ペテンでは食料危機が繰り返し経験されていた。
生産性の変動を緩和するひとつの方法は、「地域的な経済共生システム」を発展させることだ。相互貿易関係を育成したり、ヒエラルキー的に中央管理される資源プールに余剰を出すかわりに不足時に必要な食料が得られる相互義務を構築すれば、各集団は食料が不足した時期への安心のための保険を得られる。このような戦略をイズベル(Isbell 1978)は「エネルギー平均化システム」と呼んだ。実際、エネルギー平均化システムは、採集狩猟やサブシステンス農業においても数多くの地域の観察されている。
だが、地域経済共生が成功するには、シンクロせずに変動し、かつ、近くの地域に多様な生産システムがあることが必要だ。こうした条件が満たされず、隣接するグループがシンクロする周期で生産サイクルを経験するようになれば、経済協力のメリットはない。数多くの集団が同時に不足を経験すれば、襲撃と戦争以外の選択肢はなくなる。そして、まさにマヤは近隣する人々がほとんど同じ生産サイクルを経験する状況を作り出してしまっていた。
この解決策のひとつが農業集約化だったが、これは永久的な解決策ではなかった。生産力が高いシステムが確立されれば、さらに人口が増えたからだ。先古典期にかなり人口が高密度となったとき、生産性の変動は、深刻な懸念すべき課題となった。このための当座の解決策は、不足する食料を埋め合わせるための隣接する集団への襲撃だった。もし、襲撃が食料確保の理由であれば、まず、実りに近づいた作物、農民たちの村、収穫後の格納倉庫が襲撃されたはずである。このリスクから、農村の人々は安全な地域のコアとなる周囲にコアを形成することを選んだ。
これが、人々が狭い地域に集結し、さらに生存ストレスを強めることにつながった。初期のシュメールの都市国家間で同じことが起こった。分散化した移動型のミルパ農場は防御することが不可能だ。一方、盛土圃場やテラスのような集約農業は、容易に防御でき、価値ある防御を行うだけ生産力もあった。同じことが貯蔵施設にも当てはまる。戦争は農業集約化に一役勝っていた(6)。
都市と格差社会の誕生
こうして、先古典期中期のはじめには社会的な階層分化が明白となり、それ以降はますます高まった。埋葬による地位の区別は、紀元前4世紀頃に生じている。アルタル・デ・サクリフィシオス遺跡では、ヒエラルキーが出現したことが明らかだ。先古典期中期の末に約4m高の建築物が作られ、その後は、13mのピラミッドや階段を備えた古典的な神殿と宮殿の複合体へと転換していく。マヤ社会は高度に階層化され、その社会秩序は、少数の支配階級、職人や官僚の中間階層と小作農民から構成されていた。支配階級は、紀元前1世紀から、あるいは、先古典期中期からは、血縁集団内で世襲されていた。先古典期後期には、階層社会が存在した。
紀元前100年~西暦150年には、巨大神殿都市としてティカルが出現することになる。競争的な状況の下で、人口増加政策を持つ都市はさらに有利となり、都市に人口が集中した結果として戦争が起こり、都市は攻撃に対する大きな安全性ももたらしていた。その結果、数多くの人員を動員できる都市ほど有利となり、古典期後期には、小規模な都市が統合され、地域的なヒエラルキー支配を確立することにつながった。ティカルの支配圏は古典期初期には、100km四方にまで及んでいた(6)。
だが、マヤでは、どの小国も全地域を統一したまでの帝国を打ち立てることはできなかった。ひとつは、農業生産性の低さだ。古代エジプト農業は農民一人で5倍の食料を生産できたが、マヤは2倍にすぎなかった。そこで、マヤ社会は70%が農民だった。もうひとつは、食料供給と輸送に限界があったことだ。マヤには輸送のための家畜がいなかったし、帆船もなかった。トウモロコシは気候的に1年しか保存できず、多くのマヤの王国は最高でも5万人しか保有できなかった。領地も王の宮殿から2、3日の歩ける範囲に限られていた(2)。中央ペテンでは、マヤ山地のテラスやベリーズの盛土圃場等の遠方から食料を輸入することで緩和されたかもしれない。だが、食料輸送は経費がかかった。パトリック・カルバートの試算によ� ��ば、人力だけで100km食料を輸送すると、輸送者の消費に33%が費やされてしまったという(6)。
マヤを含めたメソアメリカ社会には金属器もなかった。マヤの壮大な神殿はすべて石器と木器と人力だけで建てられたのだ(2)。ティカルでは建築が最も行われた時期は692~751年だった。同時に、古典期後期の建築は、「宮殿」と呼ぶ建物に多くが投資されることとなった。パトリック・カルバートは管理者と貴族の重要性が増えたと示唆する。だが、一見浪費に見える大規模な建設がなされた理由も、見えてくる。
食料生産力が高かったローマは強力な常備軍を養うゆとりがあった。これに対し、古典期のマヤ国家には常備軍はいなかった。常時食料を巡って小国家が対立し、かつ、現実の兵力がない中で、最良の戦略は戦争回避である。常備軍を備えずに、侵略者側を思いとどまらせ、かつ、紛争を外交で解決するには、自国の強さをPRすることが最も有利である。そこで、プロパガンダが次善策となり、大建築と絵画彫刻の芸術がなされることとなったのだ。建築のようにさして重要ではないことに、多くの富や労力を浪費できることは、敵対国に対し、有事の際には膨大な人数を動員できる強力なメッセージとなるからだ(6)。
チアパス州南部、グァテマラ国境に近い森の奥にあるボナンパク遺跡(写真右)では、1946年に三つの部屋の内部いっぱいに描かれた、生々しい戦争や捕虜への虐待の彩色壁画が発見された(2)。ローマ帝国では、皇帝の勝利の行進の中に捕虜は登場しても、捕虜はそれほど虐待されていない。これに比べ、マヤは、常に囚人を拷問して処刑する虐待シーンが描かれている。これも、潜在的な敵対国からの使者たちに、いかに戦争で負ければ囚人たちが荒々しく扱われるかをPRするためのものなのだ。
一方、このプロパガンダは、敵対国以外にも効果があった。それまで、バラバラに居住していた農村の住民や小規模な国家が、安全保証というメリットを最も担保できる大規模な都市を魅了したからだ。人口増加は、ストレスの要因だったが、それは、ポジティブなフィードバックのループとなっていた。地域的な外交協定がない中で、この無限の競争から抜け出せた政権はひとつもなかった。巨大な水利施設、農業土木、複雑な社会政治組織、数多くの公共工事、軍拡競争は、いずれも、高い人口密度と関連して生じ、時代とともにその条件は悪化していった(6)。
崩壊以降
だが、それがマヤ文明の終焉ではなかった(6)。二世代前の考古学者たちは、マヤの都市が一夜で放棄されたものと誤って考えていたが、崩壊は急速なプロセスではなく、そのほとんどは、一世紀半かけて没落していった。北部低地地帯も南部の崩壊の影響を受けず、チチェン・イッツァは、ティカルが廃墟となったかなり後も繁栄し(7)、987年にメキシコのトルテカ族に占領されるまでは残っていた(1)。また、スペインに征服されるまで、小規模なマヤの都市は、ユカタンの様々な僻地で生き残っていた(7)。
また、各都市間にある農村地帯にも多くの人々が居住していた。とりわけ、ベリーズのバルトン・ラミーは、830年前後にベンケ・ヴィエホの都市が崩壊したにもかかわらず、65の農村は700~950年で62しか減っていない。また、中央ペテン湖地域でも崩壊後もかなりの人々が住んでいる(6)。
ジャレド・ダイヤモンドは、コパン渓谷の環境破壊が深刻だったと詳細に述べているが(2)、コパン渓谷では、貴族階級が姿を消してから1200年頃まで、300年も住民がいたし、アルタル・デ・サクリフィシオスでもかなりの人々が残っていた。ピーター・ジェイムズとニック・ソープは「本当に環境が破壊されたのならば、都市が崩壊した後、農民たちはどうやって生き続けたのだろうか。環境破壊がマヤの崩壊をもたらしたとする説に反対する強力な根拠となる」と述べている(1)。
もちろん、複雑な文化は失われた。約830~900年にかけ、ティカルにも、住民は残って暮らしてたが、中にはガラクタが散乱し、壊れていない建物内で暮らしていたがいつ屋根が落ちるかわからない危険が伴っていた。そして、古典期の墓や貯蔵所は略奪された。また、貧しい中でも、儀式の伝統を守ろうとし、ティカルの石碑の40%は後の居住者によってリセットされたが、出鱈目にはめ込んだり、さかさまに組んでしまうこともあった。こうした黄昏時代が100年ほど続いたあげく、ティカルは永遠に放棄されたのだった(1,6)。同じパターンが、ウアシャクトゥン、サン・ホセ、パレンケ、ピエドラス・ネグラスといった遺跡でも見出せる。崩壊以降の居住地は広範ではあったが、新たな構築は比較的少なく、バルトン・ラミ� �の農村住民たちも似た行動を示している(6)。
複雑な社会のメリットの喪失と自発的な撤退
こうしてマヤの崩壊を環境や旱魃ではなく、政治的な要因に求めるという説が登場する。政治的な原因に求める説は、エリック・トンプソンが1972年に「人口が激減したのは都市部であって、農民たちは支配階級の圧力から解放され、少ない人口でも満足して暮らした」と主張している(1)。
ジョセフ・テインターもこう述べる。
「複雑さに対する投資は、1200年以上も続いてきた。したがって、戦略として確実にメリットがあった。だが、投資に対する限界収益も年代を経るごとに低下していった。戦争、大規模建築、農業集約化に対して投資を増やしても、これに応じて民衆たちの健康や栄養状態が良くなることはなく、それどころか、システムを支える人々への要求が増え、メリットは低下していた。8世紀後半のある時期には、マヤ文明は弱体化していた。最終的な後押しが、侵入者であれ、環境悪化であれ、支える農民たちが撤退したことであれ、内部矛盾であれ、あるいは、これらの組み合わせであれ、崩壊した事実はさして驚くべきことではない。それは、そうでもしなければ解決できないジレンマへの予測可能調節であった」
そして、テインターはこう続ける。
「長期的には農業人口は大きく減少した。そして、人口が回復しなかった事実は、低地地帯の環境が集約化で劣化していたことを示しているように思える。集約農業システムは、もはや実施不可能となったヒエラルキー的マネジメントによってのみ維持されていたのであろう。とはいえ、短期的な崩壊で、農民たちはヒエラルキーを支える負担を除かれ、おそらく、その生活水準が改善されることにつながった」(6)
そう王国の貴族やエリートたちにとっては文明崩壊は災難であっても、農民たちにとってはハッピーだったのだ。戦争回避のための無駄な神殿づくりに従事しなくてもすむ。上から目線で文明崩壊の恐怖感だけをあおり、地球温暖化を回避するためには、よりクリーンな原発の推進が必要だと主張して見せるジャレド・ダイヤモンドの主張だけを聞いていては、テインターのような視点はまったく見えてこない。
それはともかく、ジャレド・ダイヤモンドは、環境破滅説を主張しながら、こうも書いている。
「マヤ農業を支えていたのは、トウモロコシとマメである。古代マヤ族の人骨を分析するとトウモロコシが70%を占めていた (略)。肉類はシカだったが、支配層の贅沢品だった。マヤ社会では王は司祭の長も兼ねていた。降雨と繁栄をもたらす責務を負っていた。農民が王やその官僚の贅沢なライフスタイルを支え、トウモロコシとシカ肉を捧げ、宮殿建設に従事したのは、王との盟約があったからであった。旱魃が起これば王は農民たちから糾弾された」(2)
では、マヤの支配者には、旱魃という危機を避ける手立てはなかったのだろうか。ダイヤモンドの上の文章の中にそのヒントがある。マヤの主要作物は、最も初期から栽培されてきたトウモロコシだったが、ラモン・ナッツや様々な根菜類も栽培されていた。花粉からは、トウモロコシの他、カボチャ、アボカド、カカオ、綿、Xanthosoma根が栽培されていたことがわかり、古典的のマヤの芸術からは、実がなる樹木、Achras、Byrsonima、Psidiumが栽培されていたことがわかる。そして、ラモンは、現在もマヤ人たちの飢饉用の食料となっているのだ(6)。
そこで、ジョン・マイケル・グリアはこう指摘している。
2012年4月15日日曜日
チャールズ・エルウッド・"チャック"・イェーガー(Charles Elwood "Chuck" Yeager、1923年2月13日 - )は、アメリカ陸軍及びアメリカ空軍の軍人。退役時の階級は、空軍准将。公式記録において世界で初めて音速を超えた人物として知られる。
[編集] 前半生
1923年、ウェストバージニア州リンカーン郡マイラの貧しい家庭に生まれる。1941年9月12日、陸軍航空軍に入隊し、飛行機の整備士となる。1943年にはパイロットの資格を取得。第357航空群で訓練を重ねた後に、1943年11月にイギリスへ派遣され、第363戦闘飛行隊のP-51パイロットとして戦闘に参加する。1944年3月4日、7回目の出撃で敵を初撃墜。しかし翌3月5日、8回目の出撃でフランス上空において、今度は彼自身が撃墜される。3月30日にレジスタンスの力を借りてピレネー山脈を越え、スペインへ逃れた。当時の軍の規則では、敵地上空で撃墜されたパイロットはレジスタンスの秘密保護のため戦列復帰を許されていなかったが、司令部への度重なる嘆願の末、パイロットに復帰する。
1944年10月12日には、1度の出撃で5機のMe109を撃墜したことにより、アメリカ軍最初の「1日で規定の記録を達成したエース・パイロット (ace in a day)」 の称号を受ける。終戦までに11.5機を撃墜した。その中にはジェット戦闘機Me262の初撃墜も含まれている。
1945年2月26日、グレニス・ディックハウス (Glennis Dickhouse) と結婚。4人の子供をもうけた。彼女が1990年に亡くなった後は、36歳年下のヴィクトリア・スコット・ディアンジェロ (Victoria Scott D'Angelo) と再婚した。
[編集] 音の壁への挑戦
戦後は創設されたアメリカ空軍に移り、NACA (NASAの前身) の高速飛行計画に基づいて作成された機体ベルX-1 (当時の呼称はXS-1) のテストパイロットに選出された。
!doctype>2012年4月13日金曜日
A. 下記の記事のコメント欄に「専門医の手記」と書かれた情報がある。低線量被曝の専門医が書いたものを無断で転載した人がいるようだ。現在、福島や関東で報告されている被曝の初期症状についての原因や、今後の予想(一部)などが書かれている。
とても重要な内容なので、長文だが全て抜粋した。一部誤字を訂正し、症状の記述は太字に、私が重要と思った部分には下線を引いた。なお、この内容は医師が情報交換をするための掲示板(?)に書かれているようで、情報源は不明である。
出典(コメント欄):警告:東京など首都圏で低線量被曝の症状が子どもたちにおきているという情報 – 放射能防御プロジェクト 木下黄太のブログ 「福島第一原発を考えます」
Unknown (専門医の手記)
2011-06-07 04:12:54
「放射線による初期症状は、外部被曝の量と内部被曝の量、年齢で、大きく違ってきます。比較的近い地域でも、ちょっとした風向き、地形差で、被曝の様式も大きく変わります。言いにくいことではありますが、既に初期症状が現れても不思議は無いだけ時間が経過したと考えています。私は、チェルノブイリの被曝者を診ていますし、仕事柄調べてはいますが、被曝線量が多い場合ではなく、低被ばく線量での影響が専門です。福島第一の近傍と他県でもホットスポットと、たとえば東京とでは、症状の出方に差がある被曝線量です。ただし、東京神奈川でも、屋内に放射性物質が付着した塵が多ければ、相応の症状があっても不思議はありません。
最初期のドライベントで、短寿命核種も放出があったのですから、それによって、鼻腔粘膜の細胞死数が増えて、炎症が起きることがあります。粘膜は、数日で元に戻るのですが、日々放射性物質を吸収していれば、微粘膜に付着し続け、炎症が続き、特に副鼻腔に蓄積すると、排出が困難なため、副鼻腔炎を起こし、さらに細菌感染しやすくなります。上咽頭まで炎症が起きれば、咳がでます。鼻血は、初期で止まると思います。止まらなければ、空気中の粉塵に付着している放射性物質量が多いと推定されます。初期には、皮膚の皺、指の爪の間に溜まり、皮膚炎、爪の割れ、さかむけ、などがおきます。食事等での摂取が多いと、消化器、特に、腸の粘� ��にダメージが多くなり、軽度で続く下痢、軽い腹部の痛みがおき、毒性の強くない細菌による食中毒様の症状を起こすこともあります。その場合、腹痛と一過性の吐き気、下痢です。
時間が経過し、体内への蓄積量が増えると、指先では抹消神経炎のような鋭い痛み、皮膚の発赤、繰り返す気道感染が、小児と20代後半から30代前半に多く現れます。感染症の場合、熱が出て、感染症と診断されると思います。最初の影響は、細胞数が面積当たりで少なく、細胞層が薄い組織から異常が始まります。そのため、皮膚の弱い人では、より炎症が激しくなり、指等の関節が痛むことがあります。この場合はアレルギーと診断される可能性が高いと思います。
内部被曝が高い場合、内分泌系に異常が起き、体重減少や生理の遅滞、生理の異常が起きます。小児は、おとなしくなってきます。小学校高学年から中高校生は、ホルモンの分泌が非常に多い時期なので、あまり変わらない可能性が高いのですが、20代後半から30代前半ではだるさを感じ始めるとおもいます。
妊娠での問題は、妊娠初期の細胞数が少ない胚の段階では、1細胞へのダメージは初期流産(被曝しなくても普通にある)に直接繋がります。妊娠最初期では妊娠に気付かないこともあると思います。分化が起きている時期での被曝は、四肢や指の分化不全を起こすことがありますが、流産にならないこともままあります。妊娠後期では、乳児と同じ考えても大きな違いはありませんが、内分泌にダメージがあれば、生後の知能と成長が良くはなくなります。チェルノブイリでは、それらが起きた地域と同等の被曝レベルの地域が日本でも広い地域にあります。
内部被曝線量の高い方々では、免疫の低下は、既にあると考えてよいと思いますが、その症状の出方は、個人差が大きく、最初は、上気道感染と腸管感染が主だと思います。なお、副鼻腔炎から中耳の炎症を起こすこともあります。
最も大切なことは、それぞれのご事情があって難しいとは思いますが、被曝線量を減らすことです。そうできるように、ご家族を説得なさってください。被曝の場合、症状の軽減はあまりありません。ご家族に説明される時の一助になればと思います。なお、40代以上での影響は、急速に少なくなります(だからと言ってないわけではありません)。
免疫を落とすステロイドの使用は、注意してください。」
!doctype>Unknown (専門医の手記)
2011-06-07 15:00:34
>toshiさんこちらは「あるサイト」にてみなさんと同じような症状をうったえる場所にて専門医の方が話されている内容を無断でコピペさせて頂いたものです。緊急時である故の処置としてお許し願いたい。今後政府サイドでは情報隠蔽の方向にむかっていくかもしれません。ご本人に迷惑がかかってしまうと今後このような有益な情報が遮断されてしまう恐れもありますので、ソースの提示は勘弁していただけると助かります。ご自身のためコピーされておくことをお勧めします。
返答その2を追記します。参考にして頂けると幸いです。
2012年4月11日水曜日
明日、女王蜂の初の単独ライヴが開かれます(パチパチパチ)。
また、3月2日の新アルバム発表をひかえて、いよいよ動きが活発になってきました~
下のリンク先は、新アルバムのプロモ映像なんですけど、
ハッキリ言って・・・怖すぎるわ!
(職場で開いてしまったことをマジで後悔している・・・)
↓「魔女狩り」予告映像 ※音量に注意!
いずれにせよ、これら女王蜂をめぐる一連のプロモーション。
いちいち露出がかっこいいし、正直すごく"上手い"気もするし。
かなりの手練手管が関与している風にも見受けられる。
でも・・・、です。
数少ないとは言え、過去のライヴ映像やら雑誌のインタビューを見ると、どうもプロデューサー云々とは次元の違う事態(事態?「才能」、と言ってもいいかも)が同時に進行している、としか思えないんですよね。いや、そもそも本当にそんな指揮してる的な人がいるのかしら?
と言うのもですね、ちょっとこれ見てもらえます?
YOUTUBEで見つけた1年ほど前のライヴ映像。
つまり、メンバー全員が高校生の時ってこと。
・・・いやあ、マジでどう思います?(00:13あたりから約30秒)
2012年4月10日火曜日
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リサイクルトナー・一般ギフト等|(株)ビッグ企画
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横浜北 車庫証明パートナーズ
「横浜北 車庫証明パートナーズ」は,神奈川県横浜市港北区・都筑区・緑区・青葉区・鶴見区・神奈川区全域及びその周辺地域の車庫証明申請・軽自動車車庫届出を行政書士が迅速・丁寧にサポート!日本全国からのご依頼に対応します。お気軽にお問い合わせください。
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所沢フェーシャルエステサロン
歳を重ねるごとに健康に美しく"をコンセプトに、東洋医学的見地から、身体の内外の健康バランスをとる食養のアドバイスも行っています。生活を変えて見たいと思われている方、素肌のトラブルでお悩みをもつ方、お問合せを心よりお待ちしています。
半月板損傷ネット
半月板損傷を手術をせずに改善したい人、手術をしたけど、痛みがとれない・・・電気をあてて、湿布だけで、本当によくなるの?半月板損傷の手術後のリハビリでお悩みの人のためのサイト。
YS DESIGN inc.
ワイエスデザインは、プロダクトデザインからパッケージ、グラフィックデザインまでをチームで行うデザイン事務所です。企画段階から、商品が市場に出るまでのプロセスをクライアントと共に歩みます。
2012年4月9日月曜日
私自身、親父の介護をしていた訳じゃないので、介護というものに対する知識はほとんど無い。
起こすと言ってもその方法がよくわからない。
けっこう体重のある奥さんで、しばらく考えてからかすかな、テレビか何かで見た記憶を呼び起こし また 長期収載品薬価の大幅引き下げについても、「あり得ない」と反論した。
介護関連では、介護職員の処遇改善が必要との認識では一致した。
!doctype>2012年4月7日土曜日
1.会陰裂傷の予防のため
会陰切開は多くは会陰が伸びきらず、裂けてしまう(会陰裂傷)と判断された場合に行われます。
経膣分娩の場合、医師や助産師は会陰が裂けないように会陰部にガーゼや手を当てて「会陰保護」を行っています。医師や助産師の技術はもちろん大切ですが、会陰部のかたさや伸び等ママの体質や、赤ちゃんの大きさや向きによって裂傷が起こることがあります。また勢いよく赤ちゃんが飛び出してきたときも会陰に強い力が加わりますから、裂傷を起こしやすいです。
特に初めての出産では、会陰が十分に伸びきらず、その頻度が高くなります。
会陰裂傷の程度は、傷口が表面だけのものから筋肉に及ぶものまで様々です。大きく分けて4つに分類され� ��います。
2012年4月6日金曜日
減量と年齢
高齢者が体重を減らすことができない健康とウェルネスコミュニティの強い現在があった。 60上記の多くの長老たちはシンナーとfrailer人々はすでに非常に多くの重量を失うことを望むはありませんが、人々のために、重量ウォッチャーのようなプログラムは、60歳以上の人々のための効果的です。
重量の監視人は、本質的にカウントカロリー、そしてどのようにカロリーが仕事をしない数えることができるでしょうか?それはちょうどあなたがそうあなたがそれを追跡することができる何を食べる記録します。長老が重量を失うしないという考え方には長い時間が存在して誤った名称である。これは単なる事実ではない。
他の噂は、若者が自分の体重を見て必要がないことです。もちろん、彼らが行う。誰もが自分の体重を監視する必要があります。重量の監視に失敗すると、人々が一日の肥満を覚ます方法です。それは徐々に起こり、あなたは本当にそれについて何かをする必要があります。若い人は自分の体重が多すぎる単に過食によって制御不能に実行させることができます。若い人は単独でその成長がすべてのそれらの余分なカロリーを消費することができないと言って脂肪や肥満、不必要になることができます。
小児肥満は、痛みの寿命のために子供を準備している。あなたの全体の生活が壊滅的な健康への影響を持つことができる肥満。これらの人々は残念ながら非常に苦しむとしている。膝、足、足首、他の支持体の部品は40年間、250プラスポンドのような重みを運ぶことができる。それは人間の関節のための珍しい作業です。私たちの子どもたちは、私たちがやったことはないと多分方法はない人間の文明が過去にもしなかった方法で苦しむでしょう。
2012年4月1日日曜日
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