Art Random - 人生のセイムスケール - Age 47
(1897.10.29〜1945.05.01)
自殺---蠍座
▲ヒトラーに追随し、ナチ党政権下のドイツでプロパガンダを任務とする国民啓蒙・宣伝大臣を務めたヨーゼフ=パウル・ゲッベルス。
◆「ヨーゼフ・ゲッペルスと妻マグダの最後の言葉をお供えします。
ピストルで自殺する前に副官に向かって、〈万事休すだ。妻と私は自殺する。われわれの死体を焼け、できるな?〉できますという答えを聞いて、彼はつけ加えた。〈これをきみに贈る〉かれはヒトラーの写真を与えた。
ゲッペルスの妻のマグダの最期は、6人の子供を殺させてから服毒した。同じ副官に向かって、〈ね、わたしたちは恥ずかしくない最後をとげます。いつかヘラルトに会ったら、よろしく言ってください。そしてわたくしたちは立派に死んだと伝えなさい〉
※ヘラルトは、彼女が前の結婚でもうけた息子(出典:「人間最後の言葉」)」---(1)。
(1942.12.15〜1990.06.17)
結腸癌---射手座
▲夫婦デュオ「ヒデとロザンナ」の一人として知られる出門 英。
(1894.01.08〜1941.08.14)
石炭酸を注射され殺害された---山羊座
▲アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で餓死刑に選ばれた男の身代わりとなった事で知られ、「アウシュビッツの聖者」といわれるポーランド人のカトリック司祭マキシミリアノ・マリア・コルベ。
◆ウェストミンスター教会に掲げられているコルベ像(左端)。
(1543.02.16〜1590.10.12=天文12年1月13日 〜天正18年9月4日)
死因?---水瓶座
▲狩野派の棟梁として、織田信長、豊臣秀吉という天下人に仕え、安土城、聚楽第、大坂城などの障壁画に筆を揮った狩野 永徳。
◆狩野永徳「檜図屏風」:八条宮智仁親王の新殿造営(1590)の際に描かれた襖絵(ふすまえ)で、のちに屏風に改装されたもの。雄大で量塊性豊かな表現は、桃山文化の特徴をよくあらわしており、ほぼ永徳晩年の筆とみとめられる。
(1832.01.01〜1879.08.31)
壊血病---山羊座
▲最も龍馬を理解し、最も愛した姉・乙女。
(1871.02.28〜1918.11.05=明治4年1月10日〜大正 7年11月 5日)
スペイン風邪から肺炎---魚座
▲評論家、小説作家、新劇指導者・島村抱月。
(1902.01.14〜1949.09.24)
自殺---山羊座
リンジー·ローハンはどのように背が高い
- イリノイ州の鉱山技師ヘンリー・マーティニ夫妻の9番目の子として誕生。本名はジェームス・マーティニ。父は職業柄転勤が多く、彼は全米各地を転々とするのですがミシガン州の「Lancing」という町の名が気に入っていたようで後に改名してジェームス・バロー・ランシングと名乗るようになる。因みにミドルネームのバローも彼のお気に入りで子どもの頃、父の転勤で一時預けられた家が「バロー家」だったから。
- 少年時代の彼は機械いじりや電気が好きで自作に没頭する毎日だった。しかも大変な天才だったらしく12才の時に早くもその片鱗をうかがわせる事件が起きる。彼が作った小型無線機があまりにも高性能だったためその電波を時の海軍無線局にキャッチされ無線機は海軍の手で没収、処分されるというエピソ� �ドが残っている。1914年といえば第一次世界大戦勃発の年。
- この時期の無線機は軍事機密に近い物だった。アメリカRCA社がラジオ放送を始めたのが1920年、同じく日本のNHKは1925年だったことと思い合わせると彼の天才ぶりが分かる。その後、カレッジを卒業してからは自動車修理工として働いていた時期もある。
- 1924年(22才)母が亡くなると家を出てソルトレークシティに移り、ここでラジオ放送局の技師として働く。この時期のラジオ用スピーカーはろくな物が無く彼は技師として働く傍ら高性能スピーカーの開発に没頭。
- 1927年(25才)ソルトレークで知り合ったケン・デッカーと一緒にロサンゼルスに移り、ラジオ用スピーカーの製造を始めまる。会社の名は「ランシング・マニュファクチャリング社」。 この頃、映画業界ではトーキーが始まり、高性能な劇場用スピーカーの需要が高まりつつある時期だった。
- 1934年(32才)前年にMGM映画社から劇場用スピーカーシステムの製作の依頼を受けたランシングは全力を傾注し、ついに「シャラーホーンシステム」と呼ばれる大型劇場用2ウェイスピーカーシステムを完成。このシステムは1936年には映画芸術科学アカデミー賞を受賞。
- 1937年発表の小型システム「アイコニック」も大きな成功をおさめ、JBLサウンドの原点を確立するとともにランシングの名を広く世界に知らしめる事となる。
- 1939年(37才)会社経営の片腕として全幅の信頼を寄せていたケン・デッカーが飛行機事故でこの世を去ると事業はたちまち経営困難に陥る。多くの天才技術者がそうであるように� ��ンシングも経営に関しては全く無能だったらしい。
- 1941年(39才)ついに経営に窮したランシングは会社をアルテック・サービス社に売却。アルテック・サービス社ではこれを「アルテック・ランシング社」という子会社として設立し、ランシングを技術担当副社長に迎える。ボイス・オブ・ザ・シアターで有名なアルテックの栄光の歴史はここから始まる。設立当初の従業員は30名。ランシングがアルテック在籍中の5年間に開発した製品としては1943年の同軸型604スピーカーをはじめ、515ウーファー、288ドライバー等、その後のアルテックの基礎を築いたといっても過言ではない名ユニットばかり。その後もアルテック社はプロ用音響機器の分野で発展を遂げ1975年には社員数も1000人を超えるまでになる。
- 1946年(44� ��)アルテックとの契約期間は5年間だったため、ランシングはアルテック社を去る。何故、契約を更新しなかったのかは不明だが、「自分はもっと美しい家庭用スピーカーを作りたいのだ」と言ってアルテックを離れたという。そしてこの年JBL社(ジェームス・バロー・ランシング・サウンド社)が設立される。
- 1947年(45才)38センチフルレンジユニットの傑作D130完成。その後、D131、D208、175ドライバーといったJBL社初期のユニット群が作られた。これらの製品はアルテック時代のユニットとともに50年を経た現在でも多くのファンが愛用している。
- 1949年(47才)「もっと美しい家庭用スピーカーを作りたい」と言ってJBL社を興したランシングだが、残念ながら彼自身はそんなスピーカーを見ることも聴くこと� ��できなかった。なぜなら会社の発足当初から例の経営音痴がまたもや彼を悩ませていたから。彼は優れたエンジニアではあったが仕事に没頭すると、周囲の事が全く見えなくなるタイプで、気がつくと莫大な借金が彼の前に立ちはだかっていた。かくして1949年9月24日、ランシングは工場裏の日頃お気に入りだった一本のアボガドの木にロープをかけた。ランシングは亡くなったが彼の意志と情熱は残された社員に受け継がれた---プロフィールはほぼ全文(1)から抜粋・リライトしました。
- 水のさん、観たらコメント願います!
- 「見ました。JBLに関して、興味はありますが望まれる程くわしくはないですよ。ギターアンプに搭載されてきたSPに関しては歴史もあり調査してみたい項目で相対するBOSSの存在など含めるとおもしろい記事が書けるかもしれません。元々JBLは音楽ホールなどに設置する目的で開発が進められてきましたが、BOSSは違います。NASAに要求された宇宙環境の中でも、確実に鳴ることが開発のコンセプトでした。。。そんな事ですが、今はこなさなければならない仕事に追われ詳しく調べる時間がありません。申し訳ないっす。^^;」(2)。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
「ジェームス・B・ランシング-Wikipedia」
「ブランド解説/JBL|Brands Info./ブランド情報|ハーマン ...」
「サウンドハウス:真空管エッセイ---」
(1)「history of JBL」
(2)投稿者:水のさん 2006/12/11 19:19:11(月) [639]
▲アメリカ合衆国のスピーカーの開発技術者ジェームス・B・ランシング。
◆シャラーホーンシステム
◆アイコニック
(1956.01.28〜2003.10.17)
胃ガン---水瓶座
- 慶応大教授、あしなが育英会副会長。
- 高校二年の時、和歌山市で酒屋を経営していた父を交通事故でなくす。人の命を救う医者になろうと決意したが、学費がない。育英界の前身団体の奨学金で東大医学部へ進学し、1980年に内科医になる。
- ガン治療の内科医として12年間勤務。臨床医ではガンを治療しきれないもどかしさが基礎研究へ駆り立てた。
- 「億単位の人命を救いたい。研究がものにならなかったら、病院に戻って億単位の患者を診ます」と約束して渡米。スダンフォード大に留学。1992年、ハーバード大学医学部・マサチューセッツ総合病院心臓血管研究所準教授。
- 研究室を持った直後、門脈血栓という難病にかかり入院。一週間、激しい痛みに襲われ続け、「もうだめかもしれない」と、覚悟も決めた。病床で「もし回復したら、次世代のために、自分しかできいない研究をしよう」と決意。その後病気は治まり、世界で多くの人が苦しんでいるアルツハイマー病を根本的に治療できる薬を目標に、研究を始めた。
- 1996年(40歳)に帰国して、慶応大教授(医学部薬理学)に就任。
- 2001年、アルツハイマー病の発症を防ぐ可能性のある遺伝子「ヒューマニン」(彼が命名した)を発見。これは「ノーベル賞級」ともいわれる偉業だった。
- 2003年10月17日、胃がんのため死去、47歳。
- 「アルツハイマー病の原因である脳細胞の死を防ぐ物質を作る遺伝子を、西本征央慶 應大医学部教授などのグループが発見、2001年5月22日付の米科学アカデミー紀要に 発表した。細胞レベルの実験と動物実験により、将来的にアルツハイマー病の治療法 の開発につながる成果だという。研究グループは、アルツハイマー病の患者の脳細胞 の中に死なない脳神経細胞があることに注目し、この細胞中で働いている遺伝子を探 索した。見つかった遺伝子の一つに、三種類の家族性アルツハイマー病原因遺伝子に よって誘導される脳細胞の死を防ぐ効果があることを突き止めた。見つかった遺伝子 は、アミノ酸24個から成る物質を作る遺伝子。この物質はごく微量でアルツハイマ ー病患者に特有のベータアミロイドという物質による脳細胞の死を防ぐ働きがあるこ とも分かった。この遺伝子は、人間の幾つかの臓器で発現していたが、これまでその 存在は知られておらず、グループはこの遺伝子がつくる物質を「ヒューマニン」と名 付けた。その後、同グループは動物実験により、アルツハイマー動物モデルの健忘症状を改善 することを明らかにし、「ヒューマニン」が動物実験レベルでも抗アルツハイマー効 果を持つことを示した。グループは「実際のアルツハイマー病患者でのヒューマニン の有効性の検討やその効果の持続性や毒性の検討が必須であることなど今後のヒュー マニンの研究課題は多いが、脳細胞を守るという観点からの新しいアルツハイマー病 治療薬となりうる」としている」(1)。
- 「仕事以外では各闘技が好きな反面、特にメンゲルベルクとワルター指揮のベートーヴェンの交響曲を好み、執筆中よく聞いておりました。またゴッホやルノワール、印象派の画家たちの絵画にも精通しており、老後は欧州の音楽会美術館巡りに連れだって出かける約束をしておりましたが、それは叶わぬ夢となってしまいました」(2)。
- 受けて恩を忘れず、施して報いを願わず。
「人生のセイムスケール」は偉人伝ではないのだが、西本征央はまぎれもなく「現代の偉人」である。¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
読売新聞2003.11.23朝刊「追悼妙」
(1)西本征央の奥様・西本知以さんからのメール 2005.01.26(水)。
(2)西本知以。トップエンターテインメントに引用符
▲アルツハイマー病の発症を防ぐ可能性のある遺伝子「ヒューマニン」を発見した西本征央。
◆「人間の価値は周りをどれだけ幸せにしたかで決まる。他人に助けてもらうことを期待せず、他人を助けること」
(西本征央)
(1862.09.11〜1910.06.05)
肝硬変と心臓病---乙女座
▲公金横領の疑いで逮捕され、3年間の入獄中に短編を書きはじめたオー・ヘンリー。
▲オー・ヘンリー傑作集
◆「最後の一葉 」
わが国でも、もっとも愛されている「最後の一葉」をはじめ、「警官と讃美歌」「賢者の贈りもの」「忙しい株式仲買人の恋物語」など十六編。短編の名手が庶民の姿を独特のユーモアとペーソスで描く傑作集。
◆内容
グリニッチ・ヴィレッジに住む貧しい画家ジョンシー。彼女は肺病にかかり、窓辺から見える残り少い蔦の葉を数えていた。散り終った時に、自分の命が尽きると…(「最後の一葉」)。わが国でも、もっとも愛されていたこの一篇をはじめ、「警官と讃美歌」「賢者の贈りもの」など16篇。短篇の名手オー・ヘンリーが庶民の姿を独特のユーモアとペーソスで描く傑作集。
最後のひと葉 岩波少年文庫
(1960.10.23 〜2008.07.25)
膵臓ガン---天秤座
- メリーランド州ボルチモアで生まれ、同州コロンビアで育った。オークランド・ミルズ高校を卒業し、1982年5月にはブラウン大学でコンピューター科学学士号を取得。
- 1988年8月には、カーネギーメロン大学でコンピュータ科学博士号を取得。
- 2008年7月25日、パウシュは、膵臓ガンのため、バージニア州にある自宅で、家族に見守られながら死去した。
- パウシュは2007年9月18日、母校でもあるカーネギー・メロン大学で「Really Achieving Your Childhood Dreams (子供時代に抱いた夢の実現)」と題した「The Last Lecture (最後の授業)」を行った。「最後の授業」とは同大で行われる特別講義シリーズの名称で、教授らが「もし死ぬ事が分かっていたら」という仮定のもとに、教授が教鞭をとるものである。このとき、彼は末期ガンで、医師からは余命3か月から6か月と診断されていた。しかし、同大は特別講義シリーズの名称を「Journeys」に変更。パウシュは講義の中で、この名称変更に言及し笑いを誘った。この講義は撮影され、YouTubeにアップロードされ世界的に話題を呼んだ。また、講義は書籍化され、世界中でベストセラーとなった。
- 講義の最後には「この講義は、いまこの講堂にいる皆さんに向けたものではありません。本当は私の子供たちに向けたものなのです。」と語り、講義を終えた。
- この講義は、パウシュ亡き今もYouTubeやiTunesUで視聴可能である。カーネギー・メロン大学が管理しており、同大ウェブサイトではDVDの販売も行っている(送料込みで$7.00)。
- なお日本では「最後の授業」はこれまで、フランスの文学者、アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)著の『日曜物語』(Les Contes du Lundi)に出てくる。なお日本では「最後の授業」はこれまで、フランスの文学者、アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)著の『日曜物語』(Les Contes du Lundi)に出てくる『最後の授業』(La Dernie`re Classe)が有名であったので、要注意。
- パウシュ教授の場合は、末期の膵臓ガンで、余命は1ヶ月から数ヶ月と宣告されており、文字通り最後の講義だった。しかし末期ガンを患っているとは想像もできないエネルギッシュかつユーモラスな語り口で、子供時代の夢と自らの人生を振り返りながら、学生達に人生の教訓を伝えた。
講義はウォール・ストリート・ジャーナルやABC放送のグッド・モーニング・アメリカなど多数のメディアで取り上げられるとともに、講義ビデオがインターネットで広がり、国内外から大きな反響が沸き起こった。 - 「カーネギーメロン大学の研究者であり、「最後の授業」で全世界に大きな感動を与えてくれたランディ・パウシュ教授が世を去られました。この数週間、彼のホームページの病状のページがアップデートされていないので心配していたのですが、ニュースを聞いた時にはやはり衝撃でした。早い、早すぎる…。しかしまったく会ったこともない人にこれだけの贈り物を残して去ってゆく人もめずらしいことです。「この地上に一つでいいから贈り物を残して去ること」こんな一行をミッション・ステートメントにもっている私には、実にうらやましくもあります。なんてすごい人なんだろう! 世界中で有名になった「最後の授業」と「時間管理」の二つの講演をまだ目にされていない人は、ぜひこの力強い言葉に触れていた� ��ければと思います。このニュースを受け取って以来、適切ではないのかもしれませんが私はトマス・ピンチョンの「重力の虹」の冒頭に引用されたロケット科学者フォン・ブラウン博士の言葉を思い出していました。自然は滅亡を知らない。ただ、変容があるだけだ。科学が私に教えてくれたことの全ては、死の先の継続を私に信じさせてくれるばかりだ。 (ワーナー・フォン・ブラウン)私も一人の科学者としてそれを信じ始めています。少なくとも、彼の言葉を私は受け取りました。私たち皆が受け取りました。そしてその言葉は次の言葉になって生き続けるのです。さあ、学んだことを実践して、次に伝えなければ!末筆になりましたが、教授のご冥福と、ご家族の平安を、心よりお祈りいたします」(1)。
- 「以下、パウシュ教授の最後の教訓を講義から抜粋する。
●自分に対する人からの意見に耳を傾けること。人から手厳しい批評を受けた時に、 「ちょっと待ってよ、そうなったのは…」と言い訳をするかわりに、「確かにそうだ」と言える人は少ない。人からフィードバックをもらったら、耳を傾けて、活用することだ。
●感謝の気持ちを示すこと。終身教授になった時、研究チームを一週間、ディズニーワールドに招待した。同僚が何でそんなことするのだ? と尋ねた。研究チームが日夜取り組んでくれたおかげで、自分は素晴らしい職を手にすることができたのだ。感謝の意を示さないこと こそ、不可能だ。
●不満を言わないで、一生懸命やる。
●何か得意なことをもつ。それによって価値が高まる。
●懸命に働く。私が一年早く終身教授になった時、準教授に秘訣を聞かれた。私は「金曜日の夜10時にオフィスに電話をくれたら教えるよ」と答えた。
●人の良いところを見つける。ディズニーのジョン・スノビー氏が、「長期間、あるいは何年も待つこともあるが、人は良い面を見せてくれるよ」と教えてくれた。完全に悪い人なんていない。良い面が見えるまで、待つことだ。
●そして、準備をすること。幸運は、準備と機会が出会った時に生まれる。
●気づいたかな? 夢をいかにかなえるかが問題ではないんだ。いかに人生を進めていくかなんだ。正しい方向に進めば、運命が導いてくれる。そし� �夢の方から、あなたに向かってやってくる。」(2)。 - 「---また、こちらは彼本人によって綴られたものですが(日本語に訳されています)、2006年9月に膵臓ガンと診断されて以降の彼の詳しい様子を知ることができます。それから、画像は彼の著書『The Last Lecture』の表紙です。バイボにお供えさせてください(右欄)」(3)。
- 「---たまたま、同じ意味の英文に出会いました。(下手な訳をつけました)
We can not change the direction of the wind but...we can ajust the sails.(我々は風の方向は替えられないが、風の向きに帆を調節することはできる)
We cannot change the card we are dealt, just how we play the hand. - Randy Pausch-(配られたカードは替えられない。ただ僕らは手持ち札でどう戦うかだ -ランディ・パウッシュー)」(4)。 - 「横から済みません。Randy Pausch博士はすでにご登場されています。こちらでは名前がラドルフとなっていますが、ランディの方が一般的なようです」(5)。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
「ランディ・パウシュ-Wikipedia」
(1)「ランディ・パウシュ教授死去。力強い言葉を、未来へ 」
(2)「末期ガンのランディー・パウシュ教授、最後の講義「心から伝えたいこと ...」
(3)投稿者:あるくノ一さん..2008/10/25 22:09:13(土) [3819]
(4)投稿者:ユリウスさん..2010/ 4/ 2 10:18:28(金) [7327]
(5)投稿者:イアさん..2010/ 4/ 2 12:16:09(金) [7328]
▲アメリカ合衆国にあるカーネギーメロン大学の終身教授で、コンピュータ科学やマンマシンインタフェースを専門とし、「最後の授業 (The Last Lecture)」の著者ランディ/ラドルフ・フレデリック・パウシュ。
▲『The Last Lecture』の表紙
dr.seussの本当の名前は何ですか
(1830.08.10〜1878.05.14)
紀尾井坂の変で暗殺---獅子座
- 初期明治政府の中枢にあった政治家、明治維新三傑。通称一蔵。号は甲東。西郷隆盛とともに薩摩鹿児島藩の下級武士集団の中心人物。
- 島津久光に信任され西郷、小松帯刀らと公武合体運動に尽力。やがて倒幕運動に転じ、西郷や岩倉具視、長州藩士らと結んで王政復古、戊辰戦争を主導し明治政府を樹立。
- 以後木戸孝允らと版籍奉還、廃藩置県を断行した。岩倉使節団の副使として随行しビスマルク専制政治の影響を受けて帰国。
- 1873年以後内務卿として事実上政府の実権を握り、地租改正事業、殖産興業政策を行い資本主義発展に努め、絶対主義的天皇制の布石をしいたが、紀尾井坂の変で暗殺された。
- 「8月9日は断髪令が発布された日。ちょんまげの終演の日である。断髪第一号は大久保利通だったという」(1)。
- 「こんにちにいたるまでの日本の制度の基礎を作った人間たちを、ただひとりの名で代表せよといわれれば、大久保の名をあげます---作家、司馬遼太郎は、そう語っている。沈着、剛毅、無私の精神で明治日本の基礎を作った。しかし同じ薩摩の朋友・西郷隆盛に比べると人気がない。冷酷な策謀家というイメージがあるからだろう。---公務中は無駄口を一切たたかず、喜怒の色を表さず、人を叱ること少なく、笑うこともまれだった。威張っていたのではない。部下も「さん」付けで呼び、終始黙々ととことん話に耳を傾け、納得すると「よろしい」といってそのまま用いる。まるで巨大な吸引力のある掃除機のような人で、意見を吸い取り、社会を整理した」(2)。
- 「後世では冷酷な政治家と伝えられている方なのですが、実は職を失った士族の人たちに私財を投げ打って新興工業の立ち上げや農業への転職を勧められた方でもありました。私の個人的な願望ですが、この方が長命して作りあげる日本というものを見たかったです」(3)。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(1)2004.08.07のTBSラジオより。
(2)読売新聞2004.11.14朝刊「ポケットに一冊 大久保利通 佐々木克監修」より抜粋。
(3)投稿者:Miwaさん..2009/ 9/ 2 10:26:54(水) [5943]
▲初期明治政府の中枢にあった政治家で明治維新三傑の一人・大久保利通。
(イラスト 玉野安実嬢)
(1493.12.17〜1541.09.24)
放浪のうちに没す---射手座
▲文献よりも実験・実証を重んじて医化学派の祖とされるパラケルスス。
◆画像-1:パラケルスス「パラケルスス-Wikipedia」より。
(1836.02.05〜1883.11.20=天保6年12月19日〜明治16年)
中風発作と脳内出血---水瓶座
- 実父は薩摩藩々主島津家の一門・今和泉領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。島津斉宣の孫にあたる。
- 幼名・一(かつ)。本家当主で従兄弟の島津斉彬の養女になり源 篤子(みなもと あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら すみこ)と名を改めた。
- 鹿児島城下に生まれる。嘉永6年(1853年)、従兄弟にあたる薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、同年鹿児島から江戸藩邸に入る。従兄・斉彬の養女となったのは、将軍家徳川家定への輿入れを想定に入れたものであった。それ以前から大奥より島津家に対して縁組みの持ちかけがあった。大奥の目的は、島津家出身の御台所(広大院)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われる。当時の将軍・徳川家定の正室は次々と夭死し、家定自身も病弱で子供は一人もいなかった。
- 一方、篤子は斉彬から政治的使命を帯びて江戸城へ送り込まれたとされる。斉彬は、次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派と紀州慶福(徳川家茂)を推す南紀派に分� ��れて対立する幕閣において一橋派であり、篤子を徳川家へ輿入れさせて発言力を高め、慶喜の将軍後継を実現させようとした。しかし藩主の実子であった広大院に対し、篤姫自身は島津家の分家の出身であり、一橋派大名からも「あまりにも御台所としては身分が低すぎる」と言う懸念の声があった。
- そのような懸念の中、安政3年(1856年)、篤姫は右大臣・近衛忠煕の養女となり、その年の11月には家定の正室として大奥へ入った。しかしながら、安政5年(1858年)7月には斉彬、8月には家定が急死してしまい、14代将軍には家茂が就任することとなった。家定の死により篤子は落飾し、以後「天璋院」と名乗る。
- 幕府は公武合体政策を進め、文久2年(1862年)には朝廷より家茂正室として皇女・和宮が大奥へ入る事が� ��定し、薩摩藩は天璋院の薩摩帰国を申し出るが、天璋院は拒否して江戸で暮らすことを選んだ。和宮と天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあってか当初は不仲であったが、後には和解した。このあたりの事情について勝海舟は、「海舟座談」において述べている。
- 勝海舟の談話などからは、天璋院は自らが擁立する予定だったにもかかわらず15代将軍・慶喜とは仲が悪く、慶応2年(1866年)の慶喜の大奥改革に対しては、家茂死去後「静寛院宮」と名乗っていた和宮と共に、徹底的に抵抗している。しかし、慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府が消滅してから江戸城の無血開城に至る中では、実家の島津家に嘆願して和宮と共に徳川家救済や慶喜の助命に尽力した。
< /li> - 明治期には徳川家からの援助で暮らし、晩年は田安亀之助こと徳川宗家16代・家達の養育に心を砕いた。自分の所持金を切り詰めてでも元大奥の者の就職や縁組に奔走して金を恵んでいたため、死に際してその所持金はたった3円(現代の6万円)しかなかったという。
- 明治16年(1883年)に東京の一橋邸で死去、享年48。東京都台東区上野の寛永寺に夫・家定の墓と並べて埋葬された。戒名は天璋院殿敬順貞静大姉。
- 愛犬家であり、結婚前には狆を多数飼っていた。しかし、夫・家定が大の犬嫌いだったために大奥入り後は猫(名はサト姫)を飼っていた。その猫を世話をしていたのは、天璋院と共に大奥を統轄していた御年寄・瀧山の姪・大岡ませ子である(参考『花葵-徳川邸おもいでばなし』ISBN 4620312347)。
- 「260年続いた徳川幕府終演の時。島津家から徳川家に嫁いだ篤姫(天璋院)は徳川家存続を求め、幕末の一瞬に火と燃え尽力した。幕府側に勝海舟、新政府側に西郷隆盛の両雄が存在したことで、世界に類を見ない無血の戦争が繰り広げられた」(1)。
- 「此方に、翌々日の東京日々新聞に掲載された記事が紹介されて居りますが、入浴中に足を滑らせて転倒した際に、中風発作と共に頭部を打撲して脳内出血を起こした様です。こちら」(2)。
- 『篤姫』(2008年の大河ドラマ)は宮尾登美子の小説が原作。宮崎あおいが天璋院篤姫演じる。見てます、見てます。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
「天璋院-Wikipedia」
(1)読売新聞2008.03.04朝刊新聞広告より抜粋。
(2)投稿者:Thori_Tungさん..2008/11/28 06:33:55(金) [3971]
▲江戸時代後期から明治の女性で、近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ江戸幕府13代将軍徳川家定御台所(正室、継室)となった天璋院篤姫。
(イラスト 大城さん)
▲『篤姫』(2008年の大河ドラマ)
▲『篤姫』(2008年の大河ドラマ)
(1915.12.19〜1963.10.11)
自宅で消化器系の出血が原因で死去/心臓麻痺説---射手座
- フランスのシャンソン歌手。パリの貧民街の路上に生まれる。父は大道芸人、母は歌手。幼いころから街頭で歌い始める。
- 1935年(20歳)キャバレーに出演。翌年レコードデビュー。のち力強く情感をこめた歌唱で第一人者となる。
- 自ら作詞作曲も行い、数多くのヒット曲だけでなく、成功と悲劇が交錯する人生にも関心が集まる。イブ・モンタンら多くの男性との恋愛遍歴、中でもボクサーで家庭のあったマルセル・セルダンとの悲恋は過去のもミュージカルの題材になってきた。
- シャンソンの女王として世界に君臨したエディット・ピアフは死後も唯一無二の存在として、その名は語り継がれている。
- 「ピアフは正規の音楽教育を受けたわけでもなく、おそらく譜面も読めなかっただろう。歌を学んだのは、まさに路上だった。理論や技術ではなく、本能と経験で人を振り返らせる。言い方を換えれば人の心に訴える歌唱を培ったといえる」(1)。
- 「幼いころ失明したが、巡礼によって奇跡的に回復したことから、神への信仰を生涯抱き続けた。その一方で、愛を求め、次から次へと恋いに身を任せてきた。そのはざまに揺れる人間の弱さや純粋さが、歌唱に陰影や味わいをもたらした」(2)。
- J.コクトーは彼女のために一人芝居『冷淡な美男』を書いた。コクトーは、エデイット・ピアフ死去の知らせを聞いた直後心臓発作を起こしミイ・ラ・フォレの自宅で急死したといわれている。
- イブ・モンタンへの思いを込めた『ばら色の人生』、マルセル・セルダンの飛行機事故死から生まれた『愛の賛歌』などは多くの歌手に歌い継がれている。
- 「歌うことで貧困から抜け出し、栄光をつかむ。同時に何人もの男性と恋愛遍歴を重ねる思うままに生きた人生はダイナミックでロック的であるそして、そうした人生の喜びと辛苦をそのままに載せた歌声は聞く者の胸にリアルに迫る」(3)。
- 「20歳で歌声が認められ「ラ・モーム・ピラフ(小さなスズメ)」として世界に羽ばたくも、殺人の嫌疑、アルコールと薬物への依存、最愛の人の飛行機事故死と、栄光の陰で不幸が続く。喜びも悲しみも孤独も何もかも、歌に込めていたからこそ、その歌声は胸を打つのだ」(4)。
- 「路上から国民的歌手への鮮やかな軌跡に加え、恋の相手は豪華。苦難は多いが、晩年は20も年下の夫テオの誠実な愛を得た。---」(5)。
- ところでボクはピアフと聞くと、フェデリコ・フェリーニ監督による映画「道」のジェルソミーナ役・ジュリエッタ・マシーナを思い出してしまう。二人とも"聖母"なのだ。ちなみにピアフは47歳、マシーナ は74歳で旅立った。
- ピアフは1930年代に流行した眉化粧を生涯好んだ。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(1)(2)読売新聞2004.06.11夕刊 評論家・大野修平。
(3)読売新聞2004.07.30夕刊 「コラム」(大)より抜粋。
(4)読売新聞2007.09.28夕刊 「エディット・ピアフ〜愛の賛歌〜」(津久井美奈)より抜粋。
(5)朝日新聞2011.05.03朝刊文化(山中宏子))より抜粋。
▲シャンソンの女王として世界に君臨したエディット・ピアフ。
◆映画「エディット・ピアフ〜愛の賛歌〜」
(1844.11.18〜1892.11.11)
視察中に卒倒---射手座
▲明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、近代日本の法典整備に力を尽くし、また、日本大学(日本法律学校)、國學院大學(國學院)の学祖でもある山田 顕義。
▲松下村塾
▲京都御所の壁
▲戊辰戦争の図
(1864.01.01〜1911.11.11)
腹膜炎かなにかで死亡---山羊座
▲ザンギリ頭に鉢巻きをしめ、筒袖に陣羽織をまとい、手には日の丸といういでたちで謡った『オッペケペ』で大当りをとった川上音二郎。
▲「ヴェニスの商人」(左から)
川上音二郎、藤澤浅次郎、貞奴。
◆オッペケペー節(明治二十四年)
権利 幸福 嫌ひな人に
自由湯をば 飲ましたい
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポー ペッポッポー
堅い裃 角取れて
マンテルヅボンに 人力車
いきな束髪 ボンネット
貴女や紳士の いでたちで
外部の飾りは よいけれど
政治の思想が 欠乏だ
天地の真理が わからない
心に自由の 種を蒔け
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポー ペッポッポー
◆「米価騰貴の今日に、細民困窮省みず、目深に被った高帽子、金の指輪に金時計」
(1871.03.05〜1919.01.15)
虐殺---魚座
▲ドイツおよびポーランドの女性革命家ローザ・ルクセンブルク。
(イラスト 大城さん)
(1954.12.29〜2002.11.21)
スカッシュの最中に心臓発作---山羊座
▲三笠宮崇仁親王の第三男子・高円宮憲仁親王。
(1874.02.02 〜 1922.01.05)
心臓発作--水瓶座
▲1914年、南極を目指す航海の途上で氷塊に阻まれ座礁、約1年8ヶ月に渉る漂流の末、奇跡の生還を果したアイルランド生まれの探検家アーネスト・シャクルトン。
◆南伸坊によるイラスト。
(1881.04.03〜1929.03.08=明治14年〜昭和4年)
死因?---牡羊座
▲大原孫三郎の依頼を受け絵画買い付けのため数度ヨーロッパに渡りモネ、エル・グレコ、ゴーギャン、ロダンなどの作品を購入し、後の大原美術館建設の礎となった児島虎次郎。
(1901.07.23〜1949.07.05に行方不明)
バラバラ死体で発見される---獅子座
- 1925年(大正14年)東大工学部卒。鉄道省(現・国土交通省)に入り、東京などの鉄道局勤務を経て1936年(昭和11年)に、ヨーロッパ各国の鉄道事情を視察。
- 戦後、東京鉄道局長などを経て1948年(昭和23)に運輸(現・国土交通)次官に就任。1949年(昭和24年)6月1日、国鉄の初代総裁となる。7月6日、常磐線綾瀬駅付近でバラバラ死体で発見される。(死亡当時の49歳は数え年齢/現在使用されている満年齢に変わるのは翌1950年から)。
- 「下山事件:1949年7月5日深夜、下山国鉄総裁が国鉄常磐線北千住〜綾瀬で貨物列車に轢かれて死亡した。自殺と他殺の両説があった。他殺説には、国鉄合理化に反対する共産党の仕業とする見方がある一方で、米情報局 CIAの反共工作活動とする見方もあった。国鉄をめぐる怪事件の1つ、下山事件である。迷宮入りになった」(1)。
- 「下山事件:国鉄総裁下山貞則の列車による轢死(れきし)事件で、自殺説・他殺説などがある。国鉄総裁・下山貞則と確認されるのに、そんなに時間はかからなかった。この事件は、下山総裁の自殺説・他殺説が入り乱れ様様な角度から捜査が行われたが、現在になってもその結論は出ておらず、いわば迷宮入りの事件となっている。---昭和24年(1949)年7月5日、下山総裁が出勤途中で行方不明となった日である。いろいろな資料から、この日の総裁の行動には不可解な点が多いのである」(2)。
- 「---政府は初代国鉄総裁の人選に頭を痛めていた。財界の大物にも当たったが、大量解雇が最初の仕事と知って引き受けるはずはなかった。近鉄社長の村上義一もその1人で、吉田首相の命令で広川弘禅(こうぜん)幹事長から総裁をやってくれと、口説かれたが即座に断っている。大屋晋三運輸大臣は、再度、村上と交渉する。村上の拒絶の意向は変わらなかったが、こうなると、運輸次官の下山貞則を抜擢するほかはないという話に落ち着いた。実は下山は、翌年行われる参議院選挙に立つ決意を固めていた。そのため、5月20日ごろには、運輸次官の職を退く考えだった。その辞表を提出する直前に、村上が下山のところに訪ねている。総裁を引き受けろと勧める村上に、下山は選挙に出るつもりだと、いったんは断っ� ��。次に大屋運輸大臣が下山と会った。大屋は総裁の引き受け手がいなくて困っている、と持ちかけた。すると下山は「れなら、私がつなぎ役をやりましょう。適任者がまとまれば、いつでも辞めます」と、答えた。また、下山は村上を訪ね「四囲の情勢を考え、総裁就任を決断しました。私が犠牲になります」と告げた。村上が「その犠牲という中には、命を捨てることも含まれるかもしれんぞ」と手を差出すと、下山は涙ぐんで握り返した。東鉄局長から本省の局長を飛び越して、いきなり次官、そして総裁だから2段飛びの大出世だった。6月1日、事件が起きる約1ヶ月前のこの日、国鉄は、公共企業体として新発足。下山貞則が初代総裁となった。下山は、連日、労働組合との団体交渉に忙殺された。下山はGHQの指示で、国� �職員9万5000人の首切りをしなければならなかった。国鉄は日本共産党の一大拠点だった。この首切り旋風は、公務員のみならず、民間企業や中小企業労働者、果ては農民までも巻き込んだ。各労組は大反対、各地でストが相次いだ」(3)。
- 下山事件のことを松本清張も『日本の黒い霧』のなかで書いている。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(1)「占領下イラクの「国連」施設爆破「テロ」に、半世紀前の占領下日本で ...」
(2)「shimoyama_jiken」
(3)「<チョット好い映画み〜つけた> 第1回」
▲貨物列車に轢かれて死亡し、自殺説・他殺説などがあるが迷宮入りした「下山事件」の犠牲者で国鉄総裁の下山貞則。
(1864.03.12〜1912.02.28ー文久4.02.05〜明治45年)
死因?---魚座
▲言論界を通じて、政治、思想、文芸や我が国新文化の開発に貢献し功績を残した池辺三山。
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